本村小学校父母と先生の会の設立に関する流れは以下の通りである(10)。昭和23年4月21日に保護者会を解散した。同年5月31日にPTA準備委員会の会合が持たれ、その議論を受けて規約を起草する起草委員会が6月中に数回開かれた。6月22日に再度準備委員会の会合があり、7月1日に設立総会が開催された。
5月31日の準備委員会で、「地域から委員をあげる事」について動議が提出されたという。「地区委員は児童生徒の多方面殊に社会的な場面指導の為に必要と考へている(ママ)」との説明もあるので、地域の人々の参加がPTAの設立上・運営上必要であるという趣旨だろう。もちろんPTAは父母と教師の会であり、政策上、教育民主化の一環として、地域の有力者の影響を排除する意図があったともいわれている。この動議に対して校長から「文部省、都の社会教育課の指示あり。学校としては研究を続けて来、大体掴んでゐる心算である」旨の発言があった。他に「大阪方面の例によれば軍政部の指導等が厳重であるから大阪に於ける模範例の朗読をなす」、「従来の状況では公職関係多く加へて学校経営に迄干渉した事案があり自分は欠席した。慎重にやらねばならない」といった発言もある。公職追放を含めた占領軍の民主化政策や文部省・都の意向を意識し積極的に情報収集を行いつつも、地域の事情を基礎として設立を進めている。
実は、PTA設立と並行して、より重大な取り組みが行われていた。本村小学校では、昭和23年4月28日、校舎の延面積の54パーセント530坪余りを焼失する火災があった。火災の翌日に保護者の有志が集まり、5月4日に復興委員会を発足させた。復興委員会の委員長は北村秀夫であった。北村は、PTA準備委員会の議長を経て、設立と同時にPTAの会長にも就任する。復興委員会は区や都に対して要望を行い、校舎再建の予算がつくこととなった(11)。しかし「校具教具等備品類」を買う予算はなかったので、復興委員会およびPTAで賛助金を募集した。募集は保護者向けとともに、むしろ金額上は地区別を主として行われた(12)。昭和24年2月下旬頃、復興委員長およびPTA会長の名で、45万3500円分の校具教具備品類の寄付申し込みを港区に行ったと思われる(13)。
この経過から、学校の維持運営に、保護者とともに地域の人々による行政への運動や経済的支援が必要不可欠であったこと、PTAについて言えば、地域としての取り組みの中に位置づけつつその学校後援機能や要求団体としての機能を発揮させることが現実的に必要であったことがわかる。