この動向の下でPTAはどのように変化したか、ともえP・T・A(鞆絵(ともえ)小学校のPTA)の会報『ともえ』(以下、『ともえ』については号数、刊行年月、ページ番号のみ示す)から、これに関わる変化をとらえた後、役員や会員の意見を見よう。
鞆絵小学校のPTAでも、学校へ設備を寄贈する取り組みが行われていた。
例えば昭和34年度には、学校が創立90周年を期して設備の充実に取り組んだことに呼応して、「放送設備とテレビジョンによる視聴覚教具に重点をおき」PTA会員や地域に向けて募金が行われた。PTA会報で梅沢令夫校長も「どうかPTAの皆様、我々の意図する所を十分にくみとられ、智性豊かな御理解の上に温かい愛情のこもった御支援をお願いいたします」と呼びかけている。(第13号、昭和35年3月、3ページ)
しかし、都教育庁から上記の依頼文書が出される頃には、前原徳二校長が「(前略)家庭教育学級は六十名を越える熱心な父母たちで進められております。これも一重に会員一同の本質的なPTA活動に対する理解と協力の結果とよろこびに堪えません」(第20号、昭和42年3月、2ページ)と述べている。「本質的なPTA活動に対する理解」の例に挙がる「家庭教育学級」は、港区教育委員会の社会教育事業として行われるものである(22)。すなわち校長は、PTAの本質は社会教育団体であると言っているのである。