後援会の機能は当時の学校運営、子どもの学習にとって必要不可欠であり、PTA設立後も後援機能を維持することは当然だった。港区立小学校の後援会・PTAでは、各学校それぞれの地域の条件に応じた資金調達の取り組みが行われていた。
後援会のPTAへの切り替えは、占領軍や文部省、都の「民主化」政策によるものであった。一方、関係者にとって後援機能の必要性は明らかで切迫していた。実態として、港区立小学校PTAの例を見る限り、活動内容も関係者の意識も、後援会的性格が強いものであった。ここにおいてPTAはいかにあるべきかという問題を立てると、政策上の論理が先に立ち、後援機能は不適切なあり方ということになる。本村小学校のPTAにおける地域委員の議論、青南小学校のPTAで「即売会の益金」をもとに設備を寄贈したことの理解に、この矛盾が表れている。
経済発展を遂げた後、公費負担の増額によって、後援機能の必要性は現実的に薄くなった。昭和40年代になって、行政はPTAを社会教育団体として位置づける政策を強化し、これに応じたPTA活動も行われた。一方保護者が自らそれを希望した様子はあまり見られない。
PTAを巡る問題状況はその後約50年たってなお継続しており、女性の就労の増加、地域社会の変化、インターネットの普及といった環境の変化により、対応の難しさが増しているとも考えられる。その間政府はますます家庭教育政策の充実に力を注いでいる。
学校後援費全廃に関する依頼文書が出された際に東京都教育委員会が発行した冊子『これからのPTA』は、従前のPTAのあり方を批判して以下のように言う。
PTAは従来からあった学校後援会、保護者会と同質のものにならざるをえなかった。このようなPTAの性格を形成した要因の一つに、親や教師の子どもの幸福や教育の向上に対する考え方のあやまりもあげられる。すなわち、子どもの幸福や、教育の向上ということを、親自身、教師自身の向上に密接に関係があるということよりも、おもに学校の財政的な後援に結びついて考えられたことである。
(東京都教育委員会『これからのPTA』昭和42年頃、13ページ)
個々の保護者として「子どもの幸福」「教育の向上」を望むことに異論はないと思われる。ではそのために必要な活動は何か、また、それら活動に関し保護者と地域、行政の関係をどう理解するか、このような基本問題を考える中で、保護者自らPTAの存在やあり方を考えていく必要を、ここに見ることができるだろう。
注
(1) 東京都小学校PTA協議会広報誌『都小P広報』第60―1号、1985年に港区P連会長名で掲載された記事「P連訪問(港区)」は「毎年六月ないし七月にかけて社会教育課と共に研修会を催している」とする。
(2) 「港区立小学校PTAの予算と活動」(港区教育センター所蔵)。作成主体の記載はない。
(3) これらの団体は、東京市からの指導により、昭和18年頃に、「教育翼賛ノ精神ニ基」いて運営される「教育奉仕会」へと改組した。また終戦後、東京都教育局長から昭和21年4月に「学校教育運営体制民主化ノ一端トシテ此際右奉仕会ノ劃一(カクイツ)的設置ハ之ヲ廃シ後援会保護者会等ノ名称ノ自由ハ勿論……」と通知された〔「昭和十八年度以降 後援会(前奉仕会)関係書類綴 東京都芝浦国民学校」〕のを受けて、「後援会」などの名称に復帰するものが多かった。本章では、これらを含めて「後援会」と総称する。
(4) 「昭和六年七月以降 保護者会記録 一号 白金小学校児童保護者会」(白金小学校所蔵)所収。
(5) 「昭和十四年六月 白金小学校児童保護者会 第二十八回報告書」(白金小学校所蔵)
(6) 同前
(7) 昭和13年度の会計報告と「会費入金一覧」について同前。
(8) PTA史研究会編『日本PTA史』日本図書センター、2004年、p.376。日本のPTAの歴史について同書が最も詳細である。
(9) 港区立小学校のPTAの設立状況の全体像は『港区教育史』第5章第2節5(2)を見てほしい。
(10) 本村小学校父母と先生の会の設立について、「昭和二十三年度 本村PTA記録」(本村小学校所蔵)による。
(11) 以上、復興委員会について、「本村小学校復興委員会記録」(本村小学校所蔵)による。なお、復興委員会の席上、「PTAと復興委員会は一元的に考えてほしい」旨の校長の発言もあった。
(12) 「昭和二十三年九月 学校復興に関する書類 本村小学校」(本村小学校所蔵)
(13) 「本村小学校々具等の現品寄附受領について」、「現品寄附申込について」(ともに本村小学校所蔵)
(14) 「昭和二十四年度 後援会関係記録 芝浦小学校後援会係」、「昭和二十五年九月以降 総会部会記録 PTA総務部」(芝浦小学校所蔵)
(15) 「昭和二十五年九月以降 総会部会記録 PTA総務部」(芝浦小学校所蔵)
(16) この案に対して実行委員会の席上、「文化部の費目を設けて予算を立てて欲しい」との意見があった。結局「今回は一般の経費として協議して之を承認し後に各部で相談してきめる」という解釈を立てて原案通り決した。規約では文化部は「児童及会員相互の文化面の向上を計るため必要とする施設の計画並にその運営」をなし「社会教育の部面をも担当する」とある。なお、この予算には給食費は含まれていない。
(17) 「昭和十八年度以降 後援会(前奉仕会)関係書類綴 東京都芝浦国民学校」(芝浦小学校所蔵)
(18) 「芝浦国民学校復興建築寄附芳名簿 第貮号 芝浦国民学校後援会」(芝浦小学校所蔵)
(19) 「青南小学校父母と先生の会会則」『せいなん』第1号、1949年、p. 40
(20) 教育奉仕会記録(標題欠)(桜田小学校)
(21) 学校後援費全廃への動きについては、日本PTA史研究会前掲書、第3章第2節を参考にした。
(22) 家庭教育学級は、「港区においては、昭和39年6月に都内23区で初めて開設した」といわれる看板事業である。昭和41年度には11学級開設され、463人が参加した(『港区の社会教育 昭和44年度』、p. 13)。