はじめに

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平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災から、長い年月がたっている。今なお、その被害の爪痕は随所に残されている。地震や津波による被害、そして原発事故によって多くの人々が傷つけられただけではなく、人々のその後の人生は大きな変更を迫られた。そして、毎年のようにいずれかの地域で発生する大規模な水害もまた、各地に住む人々のくらしを脅かしている。視野を海外に広げれば、災害だけでなく、紛争や迫害の報道は後を絶たない。自らがあずかり知らない諸力によって、生命が傷つけられ、人としての尊厳が踏みにじられ住む場所が奪われ、くらしと学びが翻弄される人々は、この文章を読んでいる今、どこかにいる。危機に瀕したとき、子どもたちはほぼ常に翻弄される側に立たされる。
港区域の人々には、自らが危機に瀕して逃れたこと、また危機に瀕した人々を受け入れたことの両方の経験がある。アジア・太平洋戦争末期の学童集団疎開が前者であり、昭和61年(1986)の大島三原山噴火の被災者の受け入れが後者である。学童疎開は大都市特有の事態であったし、噴火の被災者を受け入れたのは港区が竹芝桟橋という島しょ部との窓口を有していたがゆえのことであった。これらは、港区域に特有の危機対応の歴史といえる。この章では、二つの事態に際した教育と子どものくらしと教育に関わる諸事実について、紹介していきたい。