昭和16年(1941)12月に突入したアジア・太平洋戦争は徐々に戦局が悪化していった。アメリカ軍による本土空襲が必至となっていた昭和18年10月より、学童疎開が実行に移されることになった。まずは、できるだけ所帯単位で郊外の親類縁者を頼って自発的に行われる「縁故疎開」が先行して実施された。昭和19年4月の調査によれば、港区域では3974人の児童が縁故疎開した(1)。ただし、政府の想定通りに疎開は進まなかった。私費負担に耐えられなかったり、頼れる縁者がいなかったりするという事情があった。また、報道規制によって真実を知らない人々の間で戦局への楽観視が広がっていたことも理由であった。
長距離飛行が可能なB29による本土空襲が現実のものとなると、いよいよ集団的な疎開を実施する必要に迫られた。小学校にあたる国民学校初等科の3年生から6年生を対象として、実行に移された。港区域の児童は昭和19年7月末から順次、疎開先に出発していった。芝区の児童は主に栃木県北部の温泉地へ、麻布区の児童は主に栃木県南西部へ、そして赤坂区の児童は都内の北多摩郡および南多摩郡へと疎開した。6月中にはマリアナ沖海戦で大敗北を喫し、7月になるとサイパン島が玉砕した。戦局の悪化を知らされることもなく、子どもたちは疎開に向かっていった。