疎開先への出発の時、児童に悲壮感が漂っていたわけではなかった。児童を駅まで迎えに行った受け入れ先の寺院の住職によれば、列車から降りてきた児童たちはあたかも遠足に来たような明るい気分であり、寺院までの道を楽しそうに歩いていたという(飯倉(いいぐら)小学校(2))。
疎開先では、近所の国民学校で地元の児童とともに学ぶことができることもあれば〔乃木小学校(後の檜町(ひのきちょう)小学校)、芝小学校など〕、縁故疎開者によってすでに学校がパンク状態で1学級100人以上になっていた場合もあった(麻布小学校)。地元と折り合わずに宿舎で学習をする場合もあったが、教師にすれば1日中児童と共に過ごすことができるメリットもあったという(氷川小学校、青南小学校)。寺院を宿舎とした疎開者は、住職より般若心経などを学んで勤行することもあった(飯倉小学校、芝小学校)。
間もなくするとホームシックになる児童も出てきた。疎開から1週間ほどたった頃、家恋しさから夕方になると涙を流す児童がいたり、疎開先家族のところに来て「おばさん、お家へ帰りたいの」と手の指を握って耳元に小声でささやいてきたりする児童もいた(南山小学校)。おそらく教師の検閲によって投函されないまま残された、家族に引き取りに来てほしいと強く願う児童の手紙も残されている(南山小学校)[図10―1(3)]。時には、家に戻りたい一心で宿舎を抜け出してしまう児童も出てきた。中には、2日かけて栃木県足利市から麻布の家まで歩き通して帰ってしまった6年生男子もいたという(東町小学校)。
学校も保護者への生活状況の連絡に努めている。定期的に疎開学校通信を出している[図10―2(4)]。また定期的に児童と保護者の面会日を設けた。面会日は児童にとっても保護者にとっても待ち遠しいものであった。面会日は基本的には順番で決められていた。面会日には道路近くまで出て、バスから降りてくる保護者を待ちあぐねる児童の姿があった(麻布小学校)。
預けている児童がひもじい思いをしていないかと心配になって食料を持参してくる保護者もいた。中には移動中に傷んだ食物を口にして腹を下すことを危惧し、食料の持参を禁じた学校もあった(桜田小学校)。
栃木県の鬼怒川温泉に疎開した女性教師が記した学寮日記には、保護者との面会について次のように記されている(5)。保護者の子を思う熱意が感じられる。あまりの行動に、教師も困り顔である(神明小学校)。