〔(3) 集団疎開先での苦労〕

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疎開先で苦労したのが、シラミへの対応だった。シラミ退治に関わるエピソードは多くの学校で語られている。こちらも神明小学校の女性教師の日記の記述を引いてみよう(6)。
夜カツ子ちゃんが、△△さんの衿首のところにしらみがはっていたと知らせて来たので首まではふやうでは屹度たくさんいるのだ。急いで△△さんの所に行って着ている物を全部脱がせてみるとやっぱりいた。でも洗ふ度に煮ているからこんなにいる筈がないと想い、こうりの中を皆んなで調べて見たら、いるわいるわ。手袋から足袋、防空づ(ママ)きんにいたるまでべっとりとついている。皆でいちいちとっても取り切れぬ程。ふとんを調べてみたら、どのふとんにもやはりとりきれぬ程いた。これなのでいくら煮出してもかぎりがないのだろう。(中略)同じ班の人に云はせれば、面会の時〔保護者が〕かけぶとんを持って来たのだが、その時にはもうついていたそうだ。早速全部脱がせて他の人の寝間着を借りて、ふとんもかりて休ませる。
疎開先での食糧は、配給や購買で確保していた。宿舎の寺院が広大な土地を有している場合は、自給自足で食糧を確保できた(三河台小学校)。近所からの差し入れや供出がある場合(東町小学校、青山小学校)、風呂を借りに行ったついでにさつまいもや煎餅をもらうこともあった(本村小学校)。秋には、繰り返し栗拾いが行われた(神明小学校)。疎開児童に食糧事業関係の保護者がいて、融通してもらうこともあった(芝小学校)。
多摩地域への疎開宿舎では食糧確保に苦労するところが多かった。東京からの買い出し部隊と競合し、思うように物資が得られないことがあった(乃木小学校)。また物々交換の「悪習」が行われ、交換物がない疎開宿舎は農家にとって得るところが小さいために、品質が劣ったものを最小限しか確保できなかった(氷川小学校)。乃木小学校の児童は、多摩川に出て遊びがてらに野草摘みや魚採りをして食糧確保に努めた。地元関係者に対して接待などの「融和」を試みる場合もあった(青南小学校)。
寺院の宿舎ではお供え物を分けることもあった(飯倉(いいぐら)小学校)。夜中のうちに供え物がなくなるということもあった(東町小学校)。戦況が壊滅的になると食糧供給も途絶えがちになった(赤羽小学校、乃木小学校)。
関連資料:【くらしと教育編】6章3節(2) 疎開児童の食の思い出