〔(4) 空襲の恐怖、被害、再疎開〕

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疎開後、昭和19年(1944)11月頃から、東京から遠く離れた栃木県の温泉地であっても頻繁に空襲警戒警報が発せられたことが記され始める(桜田小学校、神明小学校)。連日のように警報が発令された。その都度、授業や行事は中止になった。神明小学校の女性教師は疎開後初めて空襲警戒警報が発令された時の児童の様子を次のように記している(7)。
(9月19日)11時25分警戒警報発令
  子供達の眼にさっと不安が張りはや涙をうかべてゐる子もある。自分が恐いのではない。東京にゐます父を思ひ母を考へてゐるのだ。一人が一寸(ちょっと)「東京は」等とつぶやけばたちまちケンケンゴウゴウ。無理からぬ事であり、情の深さにまた泣かされる。
男性教師は児童が畑で野菜作りをしている時間帯に防空壕づくりに励んだ(氷川小学校)。宿舎内に軍用物資の燃料ドラム缶が置かれていることもあり、教師を不安にさせた(氷川小学校)。
昭和20年になると、疎開先ですら空襲にさらされた。軍需工場が点在していた多摩地域や栃木県南部は、これらを目標とする空襲に関わって攻撃された。赤坂小学校は複数の寺院を宿舎としていたが、ある宿舎は本堂が機銃掃射され、本堂の屋根が破損した。別の宿舎では境内に時限爆弾が7発落とされた。児童たちは山中に逃れた。さらに別の宿舎では、本堂から10メートルほどの墓所に爆弾が落とされた。飯倉小学校が宿舎とした寺院では、B29の来襲時、本堂に避難し、布団をたくさんかけて過ぎ去るのを待っていた。だがそのうちに児童たち(3年生女子)が出てきて、本尊の前に正座して合掌して般若心経を唱え続けたという。
港区域は、5月25日から26日にかけての空襲で町が焦土と化した。この直後の様子について、当時の教師は次のように回想している(氷川小学校)。
 罹災(りさい)者(児童の父兄)から直接児童に罹災状況の知らされるのを防いで駅か学寮入口で面会をことわる処置をとったが、僅か一人の父兄が児童のいる部屋へ行き、すっかり焼かれてしまったと空襲の恐ろしかったことを洩らしてしまった為、児童が動揺し泣き出したり、自分の両親家族の安否を気遣って落着かず収拾に困りぬいた。漸くなだめすかし、くわしい様子を学校へ帰って調査して来て知らせるからと、落着かせることが出来た。その後学校へ行き、学区域の罹災状況を調べた所、疎開学童の家族の被害としては死亡二名(両親であり、学寮にいる児童は孤児となった)負傷者若干という、不幸中の幸いともいえる程度であった。しかし家は殆んど焼かれ、父兄の方も焼跡に雨露をしのぐ焼けトタンの急造小屋で呆然としたり、田舎へ行ってしまったりして、連絡のつけようも無い状態で、疎開学寮へ面会に来て元気な顔を子供に見せて安心させてほしいという私共の願いも少しも達せられなかった。その為、家族の元気な顔を見ることの出来ない子供はいくら教師が話して聞かせても心配がとけず、それが遂には食欲不振、睡眠不足に発展し、日に日に元気を失っていくのはどう処置してよいか困り抜いた。ただただ一日も早く万難を排して面会に来るか元気な手紙を児童に書き送ってほしいと頼むばかりであった。
罹災の危機が高まるにつれて、再疎開を実行する宿舎も出てきた。東京都教育局長は昭和20年7月17日に県知事等に対して、再疎開について配慮するように通知を出している。これと前後して、栃木県佐野の市街地の旅館に宿舎を構えていた南山小学校は、空襲の危険性が高いとして、同校の別の宿舎に分散疎開をすることにした(8)。
ちなみに、3月10日の東京大空襲を受けて、都はこれまで疎開対象ではなかった国民学校1・2年生も含めた疎開強化に乗り出した。縁故疎開を第一とし、集団疎開を第二として児童全員の疎開を強力に勧奨した。麻布区では、区内に残留していた2千人以上が縁故疎開し、640人程度が新たに集団疎開に参加した(9)。


[図10-3] 疎開学寮寺院での生活

女子児童の共同生活の様子。映写会か。
出典:「学寮生活記念図画集」飯倉小学校生徒作品、覚本寺所蔵

関連資料:【通史編5巻】4章9節2項 退避施設
関連資料:【通史編5巻】4章9節2項 空襲時の災害
関連資料:【通史編5巻】4章9節2項 二次・三次疎開の実施
関連資料:【通史編5巻】4章9節2項 集団疎開より縁故疎開へ