〔(1) 爆発的噴火と緊急避難〕

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昭和61年(1986)11月15日午後5時、突如として大島三原山の中央火口が噴火した(11)。噴火は19日まで毎日続いたが徐々に沈静化していくとみられていた。しかし21日の午前8時より再び噴火が活発化した。午後からは連続的な爆発的噴火が発生、溶岩は500メートル噴出し、さらには最大震度5にも及んだ30回の地震が発生した。午後4時の噴火では3700メートルの高さまで黒煙が上がった。新たに裂け目ができ、そこからも新しい噴火が発生して溶岩が流出した。町に溶岩が近づいたことを受けて、全島民に対して島外避難命令が発せられた。その日のうちに1万人余りの全島民がフェリーに乗船して翌日午前5時までには脱出した。噴火は徐々に沈静化していたが、溶岩流出は止まらず、予断を許さない状況であった。
島民は、避難した順に地区もバラバラなままに施設に収容された。児童・生徒の安否と所在の確認には数日を要した。これと並行して避難児童・生徒の教育について協議された。22日午後から23日午前にかけて、都庁で臨時の教育指導対策会議が開催された。その結果、高校生は独立して校舎を借用する一方、小・中学生については、避難先に最寄りの学校に分散して受け入れられることになった。
竹芝桟橋のある港区は各施設に避難者を受け入れ、小・中学校は多数の児童・生徒を受け入れた(12)。大島からの避難児童・生徒は全体で1374人だったが、港区は自治体の中でも最多となる343人を受け入れた。港区での避難者受け入れ施設は、最終的にスポーツセンター、婦人会館、勤労福祉会館の3カ所に集約された。この内、スポーツセンターには259人という、避難児童・生徒受け入れ施設の中でも最多の人数が収容された。さらに港区は、他の区より迅速な就学への対応を見せた。当初は24日に説明会を開催して25日より受け入れという予定であった。ただ、安否と所在の確認が完了しなかったため、説明会を25日、受け入れを26日とした。それでも、他の区に比べると1日早い受け入れ開始となった。
港区は小学校6校に207人、中学校3校に142人、都立港養護学校に1人の合計350人の児童・生徒を受け入れた(13)。その後、12月12日に全員帰島が決定され、帰島が完了するまでの1カ月弱の期間、児童・生徒は正式な転入学の手続きを経た港区の児童・生徒となった。帰島後、大島の児童・生徒は大噴火から帰島までの一連の出来事を作文にまとめている。港区の学校や児童・生徒との関わりについて抜き出してみたい。
関連資料:【通史編7巻】6章概節4項 伊豆大島噴火災害に伴う港区の対応
関連資料:【通史編7巻】6章 伊豆大島噴火災害による児童生徒の緊急入学受入れ