避難当初の児童・生徒の不安は大きかった。生徒たちは、学校そのままの形で受け入れがなされると思っていたが、分散受け入れが決定されたことによるショックは大きかった(14)。「転校したくない」と泣き出す中学生女子もいた。また正式に転入学することを知って、当分は帰島できないことを予測してショックを受けた生徒もいた(中1、K・Y)。
「もし、転校したら、制服はどうするの? 私、私服で通うのは恥ずかしい」と不安を口にする生徒もいた(15)。こうした不安に対して大島町の校長会は、着の身着のままで逃れてきた児童・生徒に対する運動用具、被服、カバン、雨具、靴といった物資の支給や学級費などの支援を東京都教育委員会に要望し、受け入れられた。また、港区教育委員会指導室長からは25日に次に抜き出した事項を含む「指導上の配慮事項」が通知され、注意が促されている(16)。
・学習の進度や内容に違いがある(指名して答えられない場合、これがからかいや冷やかしにならないようにする)
・表現力に違いがある(方言が強くでることもある・語尾が不明瞭な場合もあるので時間をかけて丁寧に聞 き取る)
・積極性に違いがある(動作が遅くとも、挙手をしないでも自分の発表の機会があった経験を考え、気持ちを汲み取った励ましをする)
・通学服・標準服でない通学を認め、これが差別にならないようにする
・公平な扱いで積極的にさせ、自信を持たせるようにする(体を使って働くことは習慣づいており、見習う点が多い)
受け入れ先となった芝浜中学校は、「大島の子供たちの苦労を少しでも少なくしよう」と、校内の配置図や通学経路の地図を配布した。図書館を午後6時まで開放して、自習室として利用してもらう気配りをした(17)。
児童・生徒にとっては、初めての登校日は緊張が高まったようである[図10―4]。御成門中学校に転入学した生徒は、「一番の心配は、御成門の生徒にいじめられないかということだった。でも、いじめられたとしても、私は「負けまい」と思った」と率直な思いを記している(中1、I・Y)。残念ながらその不安は一部的中してしまった。避難所から徒歩で30分の道のりはつらく、さらに「やっとの思いでたどり着くと、二階や三階の窓から大勢の生徒が見ていて」、中には「かえれ、かえれ!」と言う声も聞かれたという(中1、K・Y)。受験を控える3年生は「進路のことで忙しい三年生にとって、いきなり大島の田舎者が入ったりして、どんな顔をされるのかと思うと、とても不安でした。東京の学校ではこのシーズンになると、もう他人のことなどかまっていられないというイメージが強かったので、私達にとっての不安はとても大きなものでした」と記している(中3、K・H)。
[図10-4] 転入初日の様子(芝浜中学校)
11月27日(毎日新聞社提供)
不安な様子の転入学。
出典:毎日新聞 昭和61年11月27日(毎日新聞社提供)
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