全員帰島が決まった12月12日の後、それぞれの学校では「お別れ会」や「離別式」が実施された。
木曜日、全校でお別れ会をしました。(中略)終わって教室に帰る時、みんなで集まっているので、何をやっているのかなと思ったら、みんなで泣いていました。でも私は泣きませんでした。そして、次の日、五年二組でお別れ会をやってくれました。ポッキーゲームとかいろいろな遊びをしました。とてもおもしろかったです。そして次の日、いよいよみんなとお別れの日です。校長先生と全員あく手をしました。校長先生が私の名前を覚えてくれたので、うれしかったです。(小5、Y・M)
御成門へ通う最後の日、歩く道も、一歩、一歩、ふみしめて歩いた。(中略)三時間目にお別れ会があった。三中の校歌や、生徒会長のあいさつ、校長先生のあいさつもあり、(中略)中でも、御成門の校長先生が涙声で、「大島に帰したくない。」と言われた言葉が、今でも心に残っている。(中略)それぞれに教室に戻り、またお別れ会をした。そして、思いっきり泣いた。今までのことを思い出していた……。雨の日にはかさをさし、くつをビッショリにして歩いた三十分、そして、いろいろな友達、期末テスト、それに楽しくやったクラブ……そんなことを思い出しながら、私は御成門中学をあとにした。(中1、K・Y)
竹芝桟橋や避難所への見送りについて、港区教育委員会は「遠慮させてほしい」と各校に要望を出している(19)。先に紹介した学年通信にも「見送りたいと思うでしょうが、混雑が予想されるので竹芝桟橋には行かないようにしましょう」と示されている。とはいえ、児童・生徒たちの気持ちは抑えることができなかった。一部の児童・生徒は別れを惜しみに避難所や竹芝桟橋に出向いた。
〔荷物をまとめて〕バスにのって、竹芝さん橋にむかった。(中略)芝小の人が三人いた。みおくりにきてくれたそうだ。うれしかったです。(中略)芝小の子と、テープをやりました。だいぶたちテープがきれた。けど三人の子はさん橋のさきまで走ってくれました。いい友達をもったなと思いました。(小5、S・D)
19日以降、順次、竹芝桟橋から帰島のフェリーが出航していった。こうして1カ月余りの全島避難は完了した。児童・生徒は、最初は大きな不安に襲われていたが、帰島のときには別れを惜しむ思いも芽生えるほどに、温かい心で接してくれた友人や学校になじむことができた。しかしそれは、幸運にも避難期間が1カ月余りにとどまったためだったかもしれない。自宅で毎日のようにピアノを弾いていた生徒は次のように記している。
私にとって勉強と同じく大切なことが、避難中できなくてとてもつらい思いをしました。それはピアノを弾くことでした。(中略)それはただの楽器〔という存在〕だけではなくなっていたのです。特に中学校に入学してからというもの、半分は心の支えとでも言うのでしょうか、そのようなものになっていると思うのです。(中略)ピアノを弾きたいのに弾けない毎日。体の中にモヤモヤしたものが日一日とたまっていくような気がするし、指が運動不足になったような気もするのです。ストレスがたまるのは誰もが同じだけれど、そのおかげで私は一人の人のストレス発散の対象になってしまったことがありました。私もモヤモヤがたまってきていて少しつらい時にそんな目に会い、(こんな時ピアノを弾けたらなあ)と自然と思っていたのです。また、夜寝ている時(中略)手を布団の上に出して鍵盤をたたくように手を動かしていたそうです。(中略)私だけではなく島民の誰もが島に帰れば……(中略)と思っていたと思います。避難生活が長びくにつれ、ケンカやノイローゼ気味になる人が出てくるようになりました。先の見えない不安定さをつくづく感じました。(中3、K・H)
噴火が鎮静化せずに避難生活が長引いていたならば、もしくは被害が甚大になってしまったのであれば、児童・生徒の避難生活は全く違う体験と記憶になっていたかもしれない。
関連資料:【通史編7巻】6章概節4項 伊豆大島噴火災害に伴う港区の対応
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