以上、港区域の人々が経験した災禍からの避難とその受け入れについて、アジア・太平洋戦争末期の集団疎開の事例と大島三原山噴火からの避難者受け入れの事例を紹介してきた。
避難先において、いずれの場合の児童・生徒も安心と不安が入り混じった状況で過ごしていたことがわかる。災禍から逃れた安心、その一方での地元の被害や家族の安否への不安である。また避難先によって、生活状況がさまざまであったこともわかる。集団疎開においては、軍需工場が近いかどうか、東京から近いかどうか、食糧供給源と密接かどうか、疎開先学校の受け入れ態勢はどうか、疎開学寮が広いかどうか、安全が確保されているかどうか、などの条件で生活が左右されている。とにかく短時間で島から離れることが優先された大島からの避難については、収容された避難所や学校の場所や条件、などによってその生活は左右されたといえる。
児童・生徒は、いずれの場合においても、自分で選択して避難先やその条件を選べる状況になかった。行政や大人の側の事情に依存せざるを得なかった。しかし、幸運だったのは、当時の日記や後年の回想からうかがえる通り、受け入れ先となった学寮、学校や地域の受け止めがおおむね好意的であったことである。また、子どもたちは学習の機会も得られたし、地元では得られなかった体験や発見もする機会に恵まれた。しかしこれらの幸運もまた、疎開や避難の期間の長引きや状況の変化によって変転してしまったであろう。微妙なバランスの上に児童・生徒たちの疎開先や避難先でのくらしと教育は成り立っていたといってよい。
本章で紹介できたのは、その一部のエピソードにすぎない。しかしわれわれは、災禍が発生したときに社会的な弱者がさらされるリスクや人々の動き方、支援のあり方や取り組み方について、港区域が関わった身近な事例や史料からも考えることができることを記憶にとどめておきたい。
注
(1) 『港区教育史』第4章、p. 314 なお、港区域の一部の学童については先行して集団疎開をしている。集団疎開の詳しい事実経過は、
『港区教育史』第4章第9節を参照してほしい。
(2) 以下本節のエピソードは、特に断りのない限り、次の資料からによる。「学童集団疎開現地調査」(昭和60年6月17日~18日調査・飯倉小学校、筓小学校、三河台小学校、南山小学校、東町小学校、麻布小学校。昭和34年調査・氷川小学校、乃木小学校、青山小学校)。「赤坂地区集団疎開調査記録」(昭和61年6月30日調査・青南小学校、赤坂小学校、氷川小学校)。「学童集団疎開 実地調査記録」(昭和59年5月31日~6月1日調査・赤羽小学校、芝小学校)港区教育史資料編編纂室所蔵。
(3) 「手紙」南山小学校所蔵
(4) 「昭和十九・二十年度 学童集団疎開の記録 資料原本(岸田林太郎提供)」生涯学習センター所蔵
(5) 「神明小学校 学寮日記」神明小学校所蔵
(6) 同前
(7) 同前
(8) 「麻布区 昭和二十年集団疎開関係書類(1)(2)(麻布区役所)」港区教育史資料編編纂室所蔵
(9) 同前
(10) 同前
(11) 大島町教育委員会編 1988 『昭和六十一年伊豆大島噴火の記録』大島町教育委員会。以下、本節で紹介する作文や情報は、特に断りがない限り本資料による。
(12) 「児童・生徒、教職員避難所および学校別人員数(最終避難所)」前掲『昭和六十一年伊豆大島噴火の記録』pp. 330-331
(13) 前掲『昭和六十一年伊豆大島噴火の記録』pp. 299-325に掲載されている避難児童・生徒一覧より算出。
(14) 「86・11三原山大噴火避難日誌」毎日新聞(東京版)、1986年11月25日
(15) 同前
(16) 「大島町児童緊急入学関係文書」芝浦小学校所蔵
(17) 『毎日新聞』1986年11月27日
(18) 前掲、「大島町児童緊急入学関係文書」
(19) 同前