戦後新学制で、国民は「平和的な国家及び社会の形成者」(旧教育基本法第1条)とされた。つまり、自分たちの暮らす社会を、自らの手でよりよく作り上げていく主体となった。従って教育には、国家や社会を自分たちで作ることのできる人間を育てるという、新しい使命が課せられた。
教育の新しい使命を具体化する役割を期待されたのが「社会科」だった。「戦後教育の花形」と呼ばれたこの教科は、「ゆうびんごっこ」あるいは「ゆうびん」と呼ばれる桜田小学校の実践から始まったといわれる。この実践はどのような内容だったのだろうか。そして、桜田小学校は社会科の発足にどのような役割を果たしたのだろうか。
まずは、「ゆうびんごっこ」の実践内容を見てみよう。だが、当時の授業の記録は残っていない。そのため、後年、関係者への取材をもとにして書かれた記事から再構成してみたい([口絵11]参照(5))。
昭和22年(1947)1月16日、その日は晴れていたが特に寒い日だった。授業者は前年10月に桜田小学校に着任したばかりの日下部しげで、紺色のもんぺにグレーのジャケットを着ての授業だった。児童は2年生50人。場所は校内に置かれた米の配給所の真上、東向きの窓から電車とヤミ市の騒音が入ってくる2階の教室だった。
授業はまず、子どもたちが数人ずつのグループに分かれる。そのうち一つのグループが、日下部先生の店にはがきを買いに行く。「先生、はがき下さい」「切手下さい、十円でおつりは、えーと」「便箋下さい、私は百円札です」。子どもたちは引き返して、田舎の友達に手紙を書く。書いた手紙を「芝田村町郵便局」(現在の新橋四郵便局)役の子どものところへ持っていく。手紙は芝田村町郵便局から芝郵便局、さらに東京中央郵便局へ運ばれる。ここから汽車の役割の子どもに運ばれて、田舎の郵便局役の子どものところへ運ばれる。田舎の郵便屋さんから手紙を受け取った友達が、東京の友達へ返事を書く。返事は田舎の郵便局から、逆の手順で東京へ送られる。
グループごとに役割を変えて、何度も繰り返した。授業が始まってから2時間たっても、子どもたちは飽きないどころか、ますます授業に夢中になっていた。初めての社会科の授業を参観していた文部省関係者は、これなら全国の学校で実践できるという確信を深めた。
桜田小学校は、前年に東京都と文部省の実験学校に指定されていた。特に、文部省とは距離も近く、戦争直後の時期には、教員が文部省へガリ版切りの手伝いに行くこともあった。その文部省では新教科である社会科の準備をしており、桜田小学校に実験的に授業をしてくれるように依頼したのだった。当時学校には、文部省から戦後の新しい教育の情報を得て熱心に学習していた教師もいたが、実験授業の内容は理解できなかったという。
そのとき、自分にならできそうだ、と名乗りを上げたのが日下部だった。日下部は戦前、本所区の横川小学校で「未分化教育」と呼ばれる実践を行った経験があった。日下部は、社会科に「未分化教育」との共通性を見出していた。