開校当時の状況

234 ~ 236 / 321ページ
昭和22年(1947)4月、戦後新学制による中学校が開校した。港区域では[図11―5]にある区立の8校が、小学校卒業後の主な進学先となった。このうち、愛宕中学校のみが、閉校となった愛宕小学校を使用した独立校舎を持ち得た。他は小学校をはじめとして他校へ間借りの状況、しかも間借り先が2校以上になることも珍しくなかった。区立中学校だけでは入学すべき生徒を収容しきれず、東京都の方針に基づき、港区域でも[図11―5]にある五つの私立中学校に生徒の教育を委託する状況にあった。
戦争の終わった昭和20年時点で、国民学校初等科を卒業した子どもたちの進学先は5校種、延べ約60校にも上っていた(企業内に設置された私立青年学校を含む(9)。それが、昭和22年4月には1校種14校になった(委託先の私立中学校、都立外苑中学校を含む(10)。愛宕中・赤坂中・青山中(昭和23年4月、新星(しんぼし)中学校から改称)を除き、昭和20年に存在していた学校に校名のルーツはない。中学校は、名実ともに新しい学校として開校した(11)。
だが、新しい学校には何もなく、城南中学校では開校式後、生徒に「藁(わら)半紙五枚と一寸釘を五本」を寄付してほしいと伝えられた。机や椅子も足りず、2・3年生は当時の校舎である都立城南中学校(旧制)の地下室から、古い机や椅子を持ち出して修理するのが日課だった。このような状況は、後援会あるいはPTAが募った寄付金によって解消していった(『城南校友会誌 あゆみ』第5号)。
独立校舎を持つ愛宕中学校は、比較的恵まれた環境にあった。しかし同校は、いわば愛宕小学校の閉校と引き換えに開校したともいえる。開校前の2月中旬ごろから、愛宕小学校の児童の間にも閉校のうわさが立ち、学校では父兄会がたびたび開かれた。修了式間近の3月中旬、愛宕小学校の閉校と、同校校舎への愛宕中学校の開校が正式決定された。愛宕小学校最後の卒業生は、「六ケ年はぐくまれ、親しみ合つた愛宕小学校がなくなることは、何よりも心さびしいことであつたが、その反面、校舎もそのまゝ愛宕の名もそのまゝの中学が出来ることは、僕たちの成長と共に成長し中学になつた様な気がして、何かしら嬉しさもあつた」(『若葉』創刊号)と書き残している。


[図11-5] 戦後新学制による中学校の開校

併設中学校は、昭和20・21年に各校に入学した生徒を新制中学校の2・3年生として収容したもので、昭和22年の新入生はいない。
出典:旧『港区教育史』資料編1(p.511)をもとに筆者作成

関連資料:【通史編6巻】5章3節1項 港区新制中学校の発足
関連資料:【通史編6巻】5章3節1項 応急的な開校
関連資料:【通史編5巻】4章2節2項 私立青年学校の設立
関連資料:【通史編1巻】序章3節3項 六・三制教育の発足
関連資料:【文書】発足時の愛宕中学校
関連資料:【文書】発足当時の港中学校の状況
関連資料:【くらしと教育編】12章 新制中学校の校誌に現れた「座談会」