中学生になった喜び・大人たちの戸惑い

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施設が整わない状況でも、当時の中学生の言葉からは、入学の喜び、中学校で学ぶ喜びを感じ取ることができる。昭和22年当時、ほとんどの中学校は、開校と同時に就学義務が課せられた1年生だけが在籍していた。どのような学校を作っていくのか、新しい学校の立ち上げは新入生に期待された役割だった。
時間が少し早かつたが、待ちきれずに登校した。校門をくぐるとすぐ真新しい東京都港区立愛宕中学校の標札が目にうつゝた。(中略)僕は、「今日から中学生だ。しつかりやろう。」と心にかたく誓つた。この日は僕にとつて生涯忘れられない日であろう。(中略)僕たちの勉強や行動の一切によつて、愛宕中学校が世間から評価されることになり、また校風伝統のよしあしも、僕たちの第一歩より作られることを思うとき、僕たちの将来に対する責任は極めて重く、又(また)れいめいを迎える様な明かるい希望にみちた楽しみがある。(『若葉』創刊号)
中学生といっても、実際に学ぶ場所が間借り先の小学校である場合も多かった。ある女子生徒は「芝浜中学校の一年生になつてから私は毎日うれしくてなりません」「本校がせまいので私たちは竹芝にいるのですが、中学生として竹芝のかわいい弟や妹達にはずかしくないよう勉強して行きたいと思います」(『芝浜』第3号)と決意している。そして、生徒たちにとって、戦争の記憶も薄らいではいなかった。生徒たちは混乱と窮乏の中で、しかし新しい学校への期待を持って学校生活をスタートさせた。
戦争でいろいろ苦しいこと悲しいことが、私達の身のまわりに沢山起りました。私達はこれらに負けず、みんなが早く幸福になれる様にといつも思い(中略)大切な基礎の勉強を毎日熱心に続けて来ましたが、もうぢき二年生になれると思うと、いよいよ私達の胸は希望で一杯です(北芝中学校『若鮎』第2号)
多くの生徒が学ぶ喜びを語っていた頃、大人たちは中学校の動向を静かに見守る姿勢を持っていた。一方、新しい学校制度に戸惑いを感じる大人たちもいた。青山中学校は昭和22年の開校当時、港区立の中学校でありながら都立第一中学校(旧制)に併設されるという特異なスタートを切った。後援会の役員は次のように、この学校が特別であることを強調している。
青山中学は、東京都における、かつての三大有名小学校中の一つである、青南小学校に併置せられておる。
これまた名校一中の転身したものであつて、それが、フエニツクスのように灰燼(かいじん)の中から、第一段の装備を整えて、出現したのであります。(以下、『いしずえ』第4号による)
制度上、都立第一中学校が青山中学校になったわけではない。そもそも男女の区別なく、すべての人々に中等教育を保障する中学校と、男子の一部を教育した旧制中学校は全く違う学校だった。さらに、東京では「俄(にわ)かにかり集めた小学校指導程度の先生方の多い公立新制中学を好まない」人々が私立中学校へ「押しかけている」、「何はさておいても青山中学を日本で一番よい新制中学校にしたい」と述べるPTA役員もいた(12)。旧制中学校が記憶に新しい人々、特に進学のための教育を期待する人々は、エリート校ではなくなった中学校に子どもを入学させることに不安を抱いた。
父兄の方々と御面語(ママ)の機を得ましたが数人の方から「どうも家の子供は近ごろ少しも勉強しなくなつた。何とか先生に御注意を頂く様御話願ひたい。」との御話を承たのであります。之(これ)に就ては色々原因もありませう。(中略)義務教育のため学力の不揃も亦(また)相当考慮さるべき原因と申せましよう。
学力が多様だったのは、入学試験を行わず、進路の希望がさまざまである以上、やむを得ない。当時の人々にとって中学校は、数年前ならば別の学校に通うはずの生徒が同じ教室で授業を受けている学校でもあった。