まとめ

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港区域の小学校、特に桜田小学校は、社会科の実践で戦後新教育の先導役を果たした。中学校も生徒会活動、週5日制などの特徴的な実践、あるいは就職指導、進路指導などの学校に期待された役割を果たす実践を行った。就職指導、進路指導が、中学校に課せられた現実的な役割を果たした他は、民主主義国家とその構成員を育てるという、戦後の教育理念を実現することを目的としていた。その後、新学制は高度経済成長期の産業構造の変化や、進学率の上昇などの事態を経て現在に至っている。
私たちは、人々の生き方、考え方の多様性を尊重する社会を目指しつつある。現代の子どもたちは、国家の枠組みを超えて、地球規模で多様な人々と交流する世界に生きていくことが想像できる。改めて、小学校や中学校は、そこに通う子どもたちにとってどのような意味を持つのか。社会科が目指した個々人の主体性や、生徒たちの年齢や性別を超えた交流を目指した中学校の実践は、私たちの将来を考えるよすがを提供してくれているのではないだろうか。


(1)  港区教育史・資料編WEB版・図表および統計資料「区内学校卒業生進路―戦前における進路状況―」
(2)  『大日本帝国文部省第六十六年報』下巻、1946年、p.112
(3)  青年学校への進学者も、仕事の合間にわずかな授業を受けるだけだったことを考えれば、小学校で義務教育を終えた者だといえる。
(4)  『港区教育史』第3章(通史編④)p. 22、同第4章(通史編⑤)pp. 122~125、および同第1節[注釈25]を参照。
(5)  「日本の新学期13」『読売新聞』昭和32年3月22日付朝刊、「昭和戦後史 教育のあゆみ199」同紙、昭和57年3月2日付朝刊。前者は日下部しげ、後者は授業を参観していた重松鷹泰(当時文部省教科書局)への取材に基づくと思われる。
(6)  桜田プランでは、「元来児童は郵便集配人に親しみをもちその仕事に深い興味をもつている」ことを「ゆうびん」の授業の出発点にしている(桜田小学校『昭和廿三年十二月 桜田プラン 第四次試案』)。
(7)  『校報さくらだ 第9号~創立九十年 開園五年記念~』昭和41年、pp. 42~43
(8)  「昭和戦後史 教育のあゆみ201」『読売新聞』昭和57年3月4日付朝刊。
(9)  私立青年学校は、主として企業内に設置、昭和10年代に26校が設置された。『港区教育史』第4章(通史編⑤)pp. 158~160に一覧がある。
(10)  東京都では、区町村立中学校の収容力不足を補うために、都立旧制中等学校への新制中学校併設を進めた(『東京都教育史 通史編4』p.766)。
(11)  芝区域では、北芝中・愛宕中・港中・芝浜中が地名を取り入れた校名となり、朝日中学校は地元選出区議の提案で三光・白金の地名にもちなんで「朝日」と名づけられた(『あゆみ 創立三十周年記念誌』)。
(12)  全国的には、小学校の教員が中学校の教員に移行したとされているが、青山中学校の教員は新制高校の教員になってもおかしくない学歴・経歴を持つ人々で構成されていた(『自昭和二十二年度至昭和二十五年度具申書綴』、青山中学校所蔵)。