昭和50年代になると校誌に座談会が掲載されることは大きく減る。昭和54~63年(1979~1988)では、座談会記録は16本まで落ち込んだ。しかし、それはやむを得ないことであった。座談会では出席する生徒、教師、時には保護者も含め、お互いの話を聞いた上でそれに応答し、考えを深めていく。だが、昭和50年代は全国的に中学生の問題行動が多く見られた時期である。港区立中学校も完全に逃れることはできず、この時期の生徒指導としては、問題行動に対応せざるを得なかった。そうした状況では、座談会を実施する条件が整っていたとは言い難い。
『おなりもん』が10号(昭和54年3月)を最後に、座談会記録を掲載しなくなると、継続して座談会を実施している校誌は『あかさか』のみとなる。また『あかさか』も、生徒が参加する座談会は28号(昭和60年3月)が最後となる。座談会記録を見ても、分量が減少し、話し合いが活発でなかったことが読み取れる。そのような状態では、座談会を開くことによる教育効果は、労力の割に合うほどは期待できず、感じられなくなってきていただろう。