1964大会を回想する際、開催前の国内の盛り上がりについてはあまり触れられず、何となく「開催前から盛り上がっていたのだろう」と想像される傾向がある。しかし、開催前の国内世論は総じて低調であった(2)。
港区立小・中学校において、昭和38年度(1963年度)までにオリンピック教育が実施された形跡は、ほぼ見られない。港区教育委員会発行の『学校教育指導要覧』を見ても、昭和38年度の教育成果について述べている部分において、オリンピックに関する事項は皆無である(3)。当該年度の小・中学校の校報、校誌にも、オリンピックに関わる記述はほとんどない。
教育現場、特に学校にオリンピック教育が入っていくのは、昭和39年度に入ってからのことだった。4月10日、文部省は「学校におけるオリンピック国民運動の取り扱いについて」を各都道府県教育委員会教育長および各都道府県知事宛に通知した。この通知では「各学校において、オリンピック国民運動の内容について適切な教材を選択するとともに、これについて適切な指導が行われるよう、管下の各学校及び市町村教育委員会に対し御指導くださるよう」求めた(4)。続いて5月14日には、昭和39年度にNHKがテレビ放送する予定のオリンピック関連番組を表にまとめ、各都道府県教育委員会教育長宛に送付した(5)[図13―1]。
大会本番が近づくと、さらに具体的な通知が出される。8月6日には、聖火リレーの走者に中学生、高校生が参加することが予想されるとして、オリンピック組織委員会から依頼を受けた文部省体育局は各都道府県教育委員会に対し、中学生、高校生の聖火リレー参加について配慮するよう通知した(6)。また、開催を1カ月後に控えた9月5日には、文部省体育局長・中等教育局長から通知があった。その内容は「児童生徒にオリンピック大会の実況放送を集団視聴させたり、聖火の送迎に参加させる場合には、オリンピックの起源や意義等についてじゆうぶん(ママ)指導を加えてその徹底につとめるようにすること」、ただしその場合、大会の「全期間中を休業日とするなど、大幅に授業日や指導計画に変更を加えて学校教育に支障をきたすことのないようにすること(7)」、だった。
このように、文部省は昭和39年度になって、オリンピック教育を学校現場にもたらすべく、次々と手を打った。しかし学校現場にとってみれば、昭和39年度に入り、つまり年間指導計画の策定はもとより指導が始まってからたびたび届く通知に従えば、「大幅に」「指導計画に変更を加え」ざるを得なかったから、苦労は並大抵ではなかっただろう。では、港区立小・中学校は、オリンピックとどのように関わったのか。