〔(5) 教育課程編成の困難さ〕

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小学校に比べ、中学校でオリンピックを教育課程に組み込むことは、実際に困難であったろう。周知のように、オリンピック東京大会は高度経済成長の真っただ中で開催された。教育の目標も経済成長を担う人材育成に置かれていた。すでに昭和33年(1958)の学習指導要領から、教育課程の編成原理を系統学習へと転換させた他、昭和36年からは全国中学生一斉学力テストが行われるなど、能力主義に基づく多様な人材育成としての学校教育が営まれていた。受験競争も激化しており、社会全体として中学校に要請していたものは、教育課程の確実な消化であった。このような状況下では、世界的イベントといえども、学習内容をオリンピックに振り替えることには躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかっただろう。代わって削減、変更を余儀なくされたのはクラブ活動や学校行事であった。例えば昭和39年度は例年開催されていた連合音楽会がなく(34)、高陵中学校の運動会は例年秋に行われていたものが春になり、ブラスバンド部はこれに間に合わせるために猛練習をしたという(35)。