まとめ

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1964大会では、文部省が学校現場へのオリンピック教育推進の働きかけを強力に行ったのは、開催が半年後に迫ってからであった。本論で紹介したように、小学校、中学校とも年度が始まってからの教育課程の再編成は相当な苦労を伴っただろうし、影響を受けた教育・学習活動もさまざまあっただろう。そのかいあって、1964大会は子どもたちの心に強く焼きつけられた。一方、2020大会においては年間35回を5年間行うという、計画的な方法でオリンピック・パラリンピック教育が実施された(2020大会の1年延期に伴い、実際には6年間行われた)。これが結果的にどのような教育効果をもたらしたのか、検証が待たれる。
1964大会はしばしば「テレビ・オリンピック」と称される。実際にメイン会場だった国立競技場の近隣、港区立小・中学生にとっても、オリンピックに触れる一番の機会はテレビ視聴であり、会場に足を運ぶことができた児童・生徒はほんの一部にすぎなかった。それでも国民的規模での熱狂がいまだに語られている。GIGAスクール構想が進み始めた2020大会においてはなおさら、映像視聴による観戦の可能性はもっと追求できたであろう。
1964大会を通して、教師、生徒の中で「根性」への支持、「根性」を通した人間性の回復の願いが広がった。一方、2020大会で広く共感を呼んだものは何だったのだろうか。
そして最後に、2020大会は開催決定後も諸々の問題が発覚し、解決しきれないまま開催され、閉幕した。この間、学校という場は、児童・生徒や教師がオリンピック・パラリンピック大会に対し、冷静に考え、時には批判的に考察することができ、世の中に対する認識を磨いていくことができる場になっていたのであろうか。


(1)  社会教育分野では、新生活運動協会を中心に展開された国土を美しくする運動などがあるが、割愛する。大門正克編著『新生活運動と日本の戦後―敗戦から1970年代―』日本経済評論社、2012年、などを参照されたい。
(2)  日本放送協会放送世論調査所『東京オリンピック―その5年間の歩み―』日本放送協会放送世論調査所、1967年、は新聞記事や世論調査等から、当時の冷めた空気を指摘している。
(3)  東京都港区教育委員会指導室『学校教育指導要覧』東京都港区教育委員会、1964年5月
(4)  現代日本教育制度史料編集委員会『現代日本教育制度史料』26、東京法令出版、1987年、pp. 392―394
(5)  『オリンピック大会S39年度①』(国立公文書館所蔵)1964年5月14日文部省体育局長通知「オリンピック関係放送番組に関する参考資料の送付について」
(6)  「国内聖火リレーの走者として参加する中学校及び高等学校生徒の取扱方について」前掲『現代日本教育制度史料』26、pp. 422―430。同通知に添付された実施計画では、リレー隊の随走者に中学生を加えることができるとしている。
(7)  「オリンピック東京大会開催に当たつての学校における指導計画の取り扱いについて」同前、p. 430
(8)  「学校の概況」飯倉小学校『飯倉』11、1965年3月、p. 9
(9)  和田大作「この一年」氷川小学校『氷川教育』13、1965年3月、p. 2
(10)  有村京子「オリンピック日記」南海小学校『なんかい オリンピック文集』1964年12月、pp. 17―18
(11)  麻布小学校『校報 あざぶ』51(オリンピック・欧米視察記念特集)1965年3月、p. 58
(12)  同前、p. 64
(13)  今井利光「オリンピック・ホッケーの見学」御田小学校『みた』2、1965年3月、p. 25
(14)  高橋万里子「焼きついた印象」白金小学校『しろかね』14、1965年3月、p. 46
(15)  オリンピック東京大会組織委員会『第十八回オリンピック競技大会公式報告書 上』オリンピック東京大会組織委員会、1966年、p. 225
(16)  青南小学校『青南』30、1965年3月、p. 10
(17)  「学校の概況」前掲『飯倉』11、p. 9
(18)  「一年間のあゆみ」竹芝小学校『竹芝』1965年3月、p. 2
(19)  それも学校単位での観戦ではなく、私的なフェンシング観戦についてであった。前掲『校報 あざぶ』51(オリンピック・欧米視察記念特集)、pp. 20―23
(20)  前掲『竹芝』、口絵「東京オリンピックを記念して鼓笛隊編成」写真
(21)  前掲『氷川教育』13、pp. 4―5
(22)  布川哲夫「『ともえ』の子どもを育てるために」鞆絵小学校『ともえ』18、1965年3月、pp. 6―8
(23)  前掲『氷川教育』13、pp. 6―7
(24)  前掲『第十八回オリンピック競技大会公式報告書 上』、p. 227
(25)  同前、p. 229
(26)  木塚勇次郎「聖火ランナーとして」朝日中学校『あさひ』創刊号、1965年3月、p. 17
(27)  海老原幸子「開会式のリハーサルを見る」赤坂中学校『あかさか』8、1965年、p. 11
(28)  仁田春子「開会式リハーサルの感激」同前、p. 16
(29)  富永光一「サッカーを見る」同前、p. 17
(30)  「会見記 西ドイツの10種競技優勝者ホルドルフ選手に聞く」同前、pp. 14―15
(31)  視聴覚部 小酒井脩一郎「放送委員会の記録」城南中学校『あゆみ』16、1965年3月、p. 6
(32)  「奉仕部この一年」高陵中学校『高陵』7、1965年3月、p. 38
(33)  川名さよ子「オリンピックの回顧」前掲『あさひ』創刊号、p. 18
(34)  「クラブ活動 音楽」同前、p. 45
(35)  「クラブ活動 回顧と反省」前掲『高陵』7、p. 41
(36)  「北芝七大ニュース ’65」北芝中学校『若鮎』18、1965年3月、p. 35
(37)  田中真苗「オリンピックと道路」愛宕中学校『若葉』18、1965年3月、pp. 41―42
(38)  「五輪道路 赤坂見附―もと和田英子さん(2C)の家があった付近―」前掲『あかさか』8、pp. 34―35
(39)  酒井先生「オリンピックへの寸感」港中学校『みなと』11、1965年3月、p. 15
(40)  「’64年健康優良生徒きまる」前掲『あかさか』8、pp. 12―13
(41)  「オリンピックを指標とする学活・道徳の指導計画」港中学校『根性―生活指導の実践―』1964年12月、pp. 79―84
(42)  下竹亮志「根性論の系譜学―六四年東京オリンピックはスポーツ根性論を生んだのか?―」石坂友司・松林秀樹編著『一九六四年東京オリンピックは何を生んだのか』青弓社、2018年、p. 89