はじめに

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港区は、近代に入ってから比較的外国人の多い地域だった。その理由について『港区教育史』序章第1節第2項(2)では「港区在住の外国人は、歴史的にみても幕末期から外国公館の設置、高級住宅地としての環境、新橋、赤坂、青山の商業地形成の内容から、都内では欧米系を中心とした居住者数は最高である」と説明されている(45ページ)。また、明治時代の早い時期からキリスト教学校が多く設立されていた場所でもあった。
戦後、昭和49年度(1974年度)から59年度までの外国人登録者の推移については、前掲書46ページに表として掲載されている。昭和49年度の外国人登録者総数は7711人(主な国籍はアメリカ1993人、韓国・朝鮮1731人、中国1134人)だったのが、10年後の昭和59年度には総数1万871人(アメリカ3136人、韓国・朝鮮2392人、中国1282人)となっていて年々増加しており、「これは東京都23区の平均5154人の2倍強となっている」(前掲書45ページ)。また、港区のホームページによれば、平成17年度(2005年度)の時点で外国人登録者数総数2万94人(アメリカ4665人、韓国・朝鮮3065人、中国2454人)、平成24年6月の時点では総数2万432人(アメリカ4067人、韓国・朝鮮3831人、中国3495人)と、外国人登録者数は引き続き増加傾向にあった。なお、その後の推移はわずかに減少傾向にある(1)。
国際理解教育が学校教育において推進されるようになったのは、昭和49年11月にユネスコが『国際理解、国際協力及び国際平和のための教育並びに人権及び基本的自由についての教育に関する勧告』を採択したことが一つの契機だった。その後、昭和60年から62年にかけて、臨時教育審議会の『教育改革に関する答申』(第1次~第4次)の中に、国の教育改革の柱の一つとして「国際化に対応した教育の推進」が取り上げられた。港区は国の動きに先駆ける形で、いち早く国際理解教育に取り組んだといえる。すなわち、昭和57年には港区国際理解教育促進検討委員会が発足し、各校での取り組みが活発化したのであった。
その後は、平成8年に中央教育審議会答申『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について』(第3部第2章 国際化と教育)の中で、「国際理解教育の充実」が掲げられた。具体的には「国際理解教育は、各教科、道徳、特別活動などのいずれを問わず推進されるべきものであり、(中略)この教育(国際理解教育)を実りのあるものにするためには、単に知識理解にとどめることなく、体験的な学習や課題学習などをふんだんに取り入れて、実践的な態度や資質、能力を育成していく必要がある」と指摘されている。これを受けて、小・中学校、高等学校の学習指導要領(小・中学校は平成14年度施行、高等学校は平成15年度施行)から総合的な学習の時間で扱う内容として、国際理解が情報、環境、福祉・健康と並んで紹介されるようになった。
本章では、港区内の学校においてどのような国際理解教育が行われてきたのか、見ていくことにしたい。また、「国際理解教育」と呼ばれる教育が行われるようになったのは戦後であるが、戦前においても国際交流を通じて相互理解を図る教育的取り組みは行われていた。本章では戦前の動きから話を始めていくことにする。
関連資料:【通史編1巻】序章1節2項 人口構成とその特色