港区内には現在、明治学院(高等学校・大学)、東洋英和女学院(東洋英和幼稚園・小学部・中学部・高等部)、頌栄(しょうえい)女子学院(中学校・高等学校)、普連土(ふれんど)学園(中学校・高等学校)と三つの幼稚園(霊南坂幼稚園、南部坂幼稚園、安藤記念教会附属幼稚園)といったプロテスタント系教育機関と、カトリックである聖心女子学院(初等科・中等科・高等科)および三つの幼稚園(枝光会附属幼稚園、麻布みこころ幼稚園、サンタ・セシリア幼稚園)というように、多くのキリスト教主義教育機関が存在する。その多くは戦前より存在しており、校内には欧米から派遣されてきた宣教師たちが居住し、教育活動に従事していた。今では外国人教師の存在は広く見られるが、キリスト教学校ではいち早く外国人から教育を受けられる貴重な機会を提供しており、学園そのものが国際交流の体験できる場所だったといえる。
文久3年(1863)開学のヘボン塾を淵源の一つとする明治学院は、明治19年(1886)に荏原(えばら)郡白金村字玉縄台(現港区白金台)の旧三田(さんだ)藩下屋敷を新たな校地と定め、築地から移ってきた。明治23年頃の構内には4棟の宣教師館が建てられ、アメリカ人宣教師たちが寝泊まりしながら学生の教育に当たっていた。アメリカ人が校内にいるのが日常的であり、宣教師との交流はキリスト教学校では自然に行われていた。
[図14―1]は、明治学院高等学部英文科と高等商業部ESS(英語クラブ)の学生たちが2人の宣教師と多摩川にピクニックに行ったときの集合写真である(昭和9年5月撮影)。心の底から笑っているみんなの顔が印象的だ。真ん中に写っているのはウィリス・ラマート宣教師(写真中央)とハワード・ハナフォード宣教師(写真前列)である。2人は、学生からとても慕われていた。しかし、両者とも当時の当局から取り締まりを受けた経験を持つ。
ラマートは昭和10年(1935)、不敬罪容疑で高輪警察から2日間の取り調べを受けている(2)。また、ハナフォードは日米開戦直前まで白金校舎内の宣教師館にとどまっていたが、いよいよ危険を感じた昭和16年12月に同僚のジョン・スミス宣教師とアメリカへの連絡船に乗り込んだ。しかし、太平洋航海中に真珠湾攻撃が始まり、ハナフォードらは敵国人として田園調布の強制収容所に収容されてしまう。
ある日、かつての教え子がハナフォードの安否を尋ねに収容所に行った。その教え子は門番から、「なぜお前はその敵国人と会いたがるのか?」と厳しく詰問されたので、「ハナフォード先生は学生のときの私の恩人であり、誰も私が先生への感謝を言い表すことを非難する人はいません。私は今先生が敵国人と呼ばれているのかどうか、今どうやって過ごしているのか心配しています」と答えたという(3)。ここからも、ハナフォードが日本人学生から慕われていたことがわかる。アメリカ人が敵対視されていた時代に、学生と宣教師の間で国境を超えた親しい交流が繰り広げられていたのであった。ハナフォード夫妻は昭和17年に出航した最後のアメリカ行き連絡船で強制送還された。帰国後は、頻繁にカリフォルニアの日系人収容所を訪ねて彼らを励ました。