〔第3節 公立学校における国際交流・国際理解教育―戦前の動き〕

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戦前の公立学校での国際交流について、さらに詳しく見ていこう。
先ほども紹介した白金小学校の史料『明治二十一年―大正十五年学校日誌』によれば、外国人と学校との関わりを記述した箇所が散見される。最も古い記録としては、明治22年(1889)2月28日に「米国婦人大島議官令嬢ト共ニ授業参観ニ来ル」とある。その後、明治39年2月19日には「英国皇族コンノート殿下御入京(中略)高等科三四学年男女生徒一同職員一同付添芝区二葉町ニ於テ歓迎ス」、同年2月27日には同じく高等科男女が日英の小国旗を持って見送っている。つまり、イギリス皇族の歓送迎に高等科3・4年生が参加していた。
大正7年(1918)6月18日にも同じく「英国皇族コンノート殿下入京ノ為退京マテ国旗掲揚ス」とある(『明治二十一年―大正十五年学校日誌抜』による)。再びイギリス皇族の歓送迎に関わり、国旗掲揚をしていた。大正8年7月12日には「ドイツ潜水艇観覧 五六年男二百余 芝浦海岸(三隻)」という記録がある。参加したのは男児だけだが、5・6年生児童がドイツ潜水艦を観覧しに芝浦海岸まで出かけている。
大正10年6月4日には「米国人夫妻第二、三時ニワタリ一、二学年参観」に来ている。大正11年4月12日には「英国皇□殿下奉迎」、同年4月23日「英国皇太子殿下奉送(六年代表)」という記録がある。
白金小学校には、外国からのお客の参観や英国皇族の歓送迎に関わる行事が多かったので、外国人と接触する機会はたびたびあった。しかし、こういった関わりは、直接的な国際交流とはいえないだろう。白金小学校でより直接的にアメリカとの直接的交流が始まるのは、「青い目の人形」が届いて以降のことであった。
今回確認された公立学校での国際交流記録で最も古いのは、白金小学校とアメリカの小学校との交流だった。昭和13年(1938)にニューヨークのパーク・アヴェニュー・スクールと姉妹校提携をし、児童の作品を交換していた。同校『職員会記録』によれば、昭和13年10月21日の記録に「アメリカへ送るアルバムの件」で話し合われ、翌年2月22日に日米親善児童作品募集を呼びかけている。ただし、その後の年度には記録がない。
同校所蔵史料の中には PARK AVENUE SCHOOL JUNIOR RED CROSS と赤十字のマークがそれぞれ手書きされたアルバムが残されている[図14―4]。その中にはパーク・アヴェニュー・スクールの校舎写真と「赤十字の委員会(RED CROSS COMMITTEE)」「赤十字役員(RED CROSS OFFICERS)」「CIVIC COMMITTEE」と注記された児童たちの写真3枚が貼られている。このアルバムが先に送られてきて『職員会記録』にあるようにアルバムを送ろうとしたのか、それとも先に白金小からアルバムを送ったのかはわからない。少なくともこの記録に見られるように、アルバムの交換だけでなく、児童作品の交換も行われていたことがわかる。
なお、昭和13年5月11日付の記録には「少年赤十字団の成績品を仏蘭西へ送る」とも書かれており、フランスにも児童の作品を送っていたようであるが、詳細は不明である。

しかし、昭和14年に入ると欧米との交流は見られなくなる。中国との交流に変化していったのである。7月5日に「支那の子供に学用品を贈る」とあり、鉛筆、雑記帳を赤十字を通じてまとめて送っている。これは児童の直接的な交流と呼べるかは不明だが、10月11日には職員会で日華親善の成績品展覧会について話し合いがされていた。ここも詳しい内容の記録はないが、「図画、書方、綴方」と記されているので、児童の作品を通じて日中の交流を試みたのだろう。



[図14-4] JUNIOR RED CROSS
白金小学校所蔵