戦後になり、国際交流に関する一番早い動きは、高輪台小学校『昭和廿一年度公文書』の中に見られる。戦後直後、アメリカ人女児との文通が呼びかけられているのである。昭和22年(1947)3月、東京商工会議所から児童・生徒に対する呼びかけの文章は以下の通りだった。
このたび米国フロリダ州ブッシュネル町ベティ・アン・べヴィル嬢から別紙のような手紙が来ました。米国には、これと同じ気持をもっている子供さん達が他にもたくさんいるでしょう。同様に日本の皆さんの中にも米国の事情を知ったり米国の子供達と通信を交換したりすることを希望している方が少くないと思います。そういう方は習った英語で米国の子供達に宛てて手紙を送って下さい。再建日本が将来世界の国々に立ち交って親善を図っていくことの促進ともなります。
アメリカの女児からは、「私は東京について色々知りたくて仕方がありません。私はあなたのお国が大好きです。どうか私の手紙に御返事を下さい」という手紙が送られてきた。手紙は「英語で書くこと」と注意書きされているが、果たして、戦後直後の日本人児童生徒が英語で返事を書けたのかどうかは甚だ懐疑的ではある。しかし、戦後いち早くこうした動きがアメリカ側からあったことは注目に値する。