〔(2) 姉妹校提携とJRC活動について〕

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『港区教育史』第6章第1節第2項(2)にも、「小・中学校のこれまでの国際理解教育の具体的な実践は、姉妹校の提携による外国との交流とJRC活動(青少年赤十字活動)であった」(68ページ)と紹介されているように、港区で国際理解教育が本格的に開始されるのは昭和40年代に入ってからで、外国の学校との姉妹校提携やJRC活動がその端緒だった。
最も早い動きは、麻布小学校とニューヨーク市クイーンズ区第203公立校との姉妹校提携だった。ただし、これは姉妹校提携をした他の学校にも共通していえることだが、両校の交流はそれほど頻繁に行われたのではなく「中断しがち」で、昭和60年度(1985年度)の時点でも「うまくコンタクトがとれなかった(5)」。麻布小は港区の研究協力校として昭和60年度より本格的に「国際理解教育の研究」を推進するため、西ドイツや中国との交流の模索を進めている。
三光(さんこう)小学校は昭和46年にニューヨーク市第160公立校と姉妹校提携していたが、その後11年も交流は中断していた。しかし、やはり58年度に港区で国際理解教育促進委員会が発足したのをきっかけに、三光小は160公立校と関係を復活させ、校長間で親書を取り交わし、三光小から児童の図工や習字の作品を送った。ところが、先方からは児童の作品が送られてくることはなく、そのまま立ち消えになった。
白金小は昭和42年7月12日にも「アメリカより海外教育視察団十五名来校、放課後本校教師と懇談会を行なう(6)」という記録があるように、戦前同様、学校への海外からの訪問客を受け入れていたが、外国の学校との姉妹校提携は昭和58年4月10日、ニューヨーク市クイーンズ区第124公立校と交わしたのが最初だった。さらに昭和59年12月21日にはイリノイ州シカゴのアグネスフィフティ小・中学校との手紙による交流を開始している。
昭和60年には「児童が国際感覚を身につけること」をねらいとして、国際交流クラブが活動を始めた。クラブ構成は6年生25人、5年生8人、4年生4人の計37人(希望者による入部制)と外国人英語教師(ガーナ出身女性)1人、担当教師2人だった。
また、昭和55年度より、隣接の明治学院大学に交換留学しているアメリカ・ミシガン州ホープ・カレッジの学生が小学校を訪問し、授業参観と懇談を行うようになった。なお、明治学院大学とホープ・カレッジとの国際交流は昭和40年より始まっている。
飯倉(いいぐら)小学校は昭和59年度にニューヨークブルックリンの小学校と交流を模索したがうまく進展せず、西ドイツブレーメン州クレッベリンゲン地区バストーレンベーク小学校と姉妹校提携を結んだ。
芝小学校は昭和58年6月にニューヨーク市第272公立校より姉妹校提携の申し出を受けた。
アメリカと西ドイツの小学校との姉妹校提携が模索されていた中で、東町小学校は昭和58年5月に、「区教委の依頼を受け、港区国際理解教育推進の一環として韓国ソウル市盤院国民学校と姉妹校関係提携を受諾」している。早速、同年10月4日に、盤院国民学校長より親書、12月23日には「書画等の児童作品多数」が届いた。
昭和60年4月には韓国放送公社が「日本の幼稚園・小学校紹介」として小学校と幼稚園の取材をしたり、同年8月には盤院国民学校長夫妻が来校して施設見学と教職員やPTA役員と懇談したりするなど、交流が進んだ。同小学校沿革誌によれば、同年5月、韓国児童対象の日本語教室が開設された。期間は1学期間で、入級児童は4人いた。盤院国民学校からは「姉妹校血縁楯」が贈られ、「いっそう親善を深める」ことになった(7)。この事例から、欧米よりも近隣のアジアとの交流の方が関係が深くなり、交流も継続していったことがわかる。
一方、JRC活動については『港区教育史』第6章第1節第2項(2)71ページにも紹介されているように、麻布小、三光小、飯倉小、白金小、高輪台小の5校で実施され、健康安全や国際交流親善などに関する活動を定期的に行った。
関連資料:【通史編7巻】6章1節2項 国際理解教育の促進
関連資料:【通史編7巻】6章2節2項 国際理解教育の推進
関連資料:【通史編7巻】6章2節2項 姉妹校の提携
関連資料:【通史編7巻】6章2節2項 JRC活動
関連資料:【通史編7巻】6章7節1項 国際理解教育の推進