戦災孤児の保護

 どら響く島……
     東水園の開園式挙行される!!
 芝浦沖に縹緲と浮ぶ離れ小島第一台場にある戦災者救援会児童保護所東水園の開園式が三月十六日都民生局長等列席のもとに挙行された、東水園の事実上の開園は、昨年の八月二十五日であったが、当時は荒れるにまかせた旧海軍兵舎の建物に幾分の修理を施したばかりの窓硝子もない畳もととのっていない造作なしの施設に応急的に児童を収容したものであるという、それが関係者の熱心な協力によって今日では収容所としての体裁も一応そなわり、延期されていた開園式が行われる運びとなったのである。式は午後二時半に開かれ、救援会長である水野園長の開会の辞に続いて事業報告があったがそれによると開園以来の収容児童は今日まで三四六名で、延人員にして実に八、九六一名に及ぶという、そのうち逃亡した児童は八九名であるが殆ど全部が再びここに収容されているとのことであった、ついで都民生局児童課長の開設に至るまでの経過報告があってから、児童と共に親しく生活し労苦を共にして来た指導者杉浦、岡本両氏から園児の日常生活と今後の経営教育方針について説明があり、都厚生委員長、港区長(代理民生部長)小島港区厚生委員水上警察署長よりそれぞれ祝辞があって式を終了、懇談のひとゝきを共にし午後三時半散会した

(『港区政ニュース』昭二四・三)


 ◎東水園慰問行
 幕末の風雲急なる頃、黒船襲来の悪夢におびえた徳川幕府が、これに備えるため構築した砲台は、今は波静かなる芝浦地先に、一連の離れ島として望見される。その品川よりの第一台場は、現在、浮浪児の収容施設東水園と変ってかつて都内の盛り場を根城として悪の芽生えを見せていた八才から十九才までの子供達五十三名が、こゝに収容されて、更生の日常を送っている。
 去る十一月二十七日の土曜日の午後、港区役所職員演劇部で、収容児達の慰安演芸をすることになったので、これに同行した。この日は、演劇部員のほかに、園児達の学習について心配せられている山西視学と、佐野課長以下の民生課員同行、小雨降る中を品川より舟出した。迎えに来た園児が梶をとる。舟が「お台場」に着くと、舟着場の傍にある円柱形の鉄のタンクに石を投げる。ボン/\と音がする。これは舟の到着を報ずる合図のドラだそうである。出迎えに来た子供達の中の、十才位の女の子が、佐野課長に「お前、帰って来たのか」と聞かれている。「うん、うん」と身をすりよせて、うなずくこの子は、街の灯を慕って、この島から逃れたが、数日前自分で、再び戻って来たのだそうである。「こゝの方が、いゝもん」とニコ/\笑っている。
 お台場の周囲は、高い防壁になっていて、その中の約三千坪の平地の真中に、H型の平家が建っている。この建物は、戦時中は海軍の兵舎であったが、今は園児達の起居する東水園の建物に改装されている。内部は、なんの装飾もない板張りの殺風景な室が並んでいる。この中で暮らす園児達の朝夕を思って胸のせまる思いがしたが、然しそれは、単なる大人の感傷に過ぎなかった。集会室に集まっている子供達は、行儀よく畳の上に坐って、今日の催し物の期待で眼を輝かしている。佐野課長の問に答える声も、顔も、みんな無邪気で明るい。此処で学校の勉強ができる話は子供達を心から喜ばせたらしい。戦時中からの不幸な境遇のために、小学校三四年以上の学業を受けた者がないという。
 慰問の催は、桐ヶ窪雪子さんの独唱によって始められた童謡「朝はどこから」は、園児達も一緒になって元気に歌った。三宅文子さんの紙芝居「アラジンの不思議なランプ」では、童話の世界に誘われて行く無邪気な眼、小杉衆一さんのハーモニカ伴奏で「みどりの丘」を声はり上げて歌う子供達、板坂達磨さんの童話では、腹を抱えて笑い伏す子供達、もう過去の惨めな暗さは、この子供達の何処にも跡をとどめていないように見える。望月さんの独唱、今給黎忠さんの紙芝居が終って、いよ/\子供達の待望の人形劇「化しあい」である。開幕前から、しきりに拍手が起る。「何幕あるの」と声がかゝる。三幕あると聞いて歓声をあげて喜ぶ。出演者は、須永美都子、三宅文子、小野柾子、田中慎二、梅田美彌子、小杉衆一、今給黎忠、東方恭子、板坂達磨の諸氏、熱演につれて露わな感情をむき出して笑う声、室は四十畳位の畳敷、硝子一枚はまっていない窓、吹きこむ風は、いさゝか寒いが子供達の心は暖かそうである。催が終ってから、厚生課の心尽しになる蜜柑や菓子を貰って、満足そうに、はしゃいでいた。こゝに来て感じたことは、もう子供達は、過去の生活に、なんの執着も持っていないことである。たまに街の灯に誘われて逃げ出しても、時が過ぎると、また自分からこゝに帰って来るそうである。彼等は浮浪児と呼ばれることを極度に嫌っている。こゝは水野園長以下七名の職員が園児と居を共にして指導に当っているが、これ迄にするには並々ならぬ苦労があったに違いない。建物も民生課の努力によって、着々と改良され、近く窓硝子も全部はいるという。そうなったら、子供達の喜びも大きい。
 空地の一隅には野球のネットが張られ、土堤の枯草の中には、野草や野放しの兎が遊んでいて、慰安の少い、この島での、子供達の良き遊び相手となっている。
 慰安団の一行が、この島を去る頃には、芝浦の臨港地帯から、高輪台地にかけて、電灯の光が輝いていた。この島には、電灯も、水道もないと聞く。舟着場まで送って来た。

(『港区政ニュース』昭二三・一二)


     東水園閉鎖される
 芝浦沖の第一台場所在の東水園は、昭和二十三年八月に事業を開始して以来、一時は七十名にも及ぶ浮浪児を収容していたが、種々の事情により施設閉鎖の止むなきにいたり一月十一日収容児童を他の施設に分散収容し、事実上事業を休止した。

(『港区政ニュース』昭二五・二)


 
【付記】太平洋戦争末期、東京都内は激しい戦火を受け多数の戦災孤児が生まれた。住み家を失った孤児は放浪の生活をし、犯罪をも助長しかねない状況にあった。そのため東京都は、昭和二十三年八月に芝浦埠頭沖の第五台場にあった水上署見張所の施設を孤児のための収容所とした。多くの孤児が収容できるよう第一台場の河岸兵舎へ移し、名称を東水園と称した。収容された児童の教育は、高輪台小学校の分校として行われた。昭和二十四年十月、台風により建物が破壊され、翌二十五年一月をもって閉園した。