北芝・愛宕中学校統合の経過

 北芝・愛宕中学校統廃合の歩みは、昭和三十六年度から始まった。当時の国分PTA会長、高島、赤木、藤原副会長名をもって、校舎改築の請願書が区議会あてに提出されたのである。
 ここで最初にして最大の難関は土地問題であった。北芝中の敷地は国有地で、都が風致区に指定している芝公園内にあるため、現在地には改築できないとされたのである。ところが、はからずも北芝中学校改築の運動は、北芝・愛宕両校の統廃合問題に発展した。両校とも時代の反映によって年々生徒数が減り、この期に臨んでは両校の合併こそ、最も機宜に適した措置であるという結論に達したのである。こうして三十九年度、「新校舎建設促進委員会」が、両校役員を委員として発足した。
 促進委員会の努力はようやく実り、三十九年、区教委から統廃合促進の要望書が都教委に提出され、都教委はこれを承認し、やがて新校舎建設用地は、現北芝中の北隣国鉄官舎の敷地が最適であるということになった。これから関係方面と国鉄側との交渉が進められたが、国鉄側はこの敷地を現金で売却するのではなく、代替地が欲しいとのことであった。都側の奔走によって、四十一年五月、新校舎建設予定地二千三百坪のうち九百坪分の替地が、豊島区南長崎に確保でき、そして交換手続きは四十二年度中に完了した。さらに同年中、校舎建設に必要な隣接球技場(公園地)の約三百坪の使用が、関係部局から容認される見通しがつき、区当局はいよいよ地質調査および新築校舎の設計委託に踏みきったのである。
 なお、国鉄所有の残地については、校舎建設中に解決して、運動場にあてるという計画であった。
 関係各位の努力にもかかわらず、両校統廃合問題が意外に手間どったのは、国鉄側があくまで代替地を要求したからである。運動の途上に、早くも両校の創立二十周年がめぐってきた。そして、その記念式典を北芝中は四十二年十一月一日に、愛宕中は同年五月四日に、それぞれ古びた旧校舎で行なわなければならなかった。このとき関係者は、みな「千載の遺憾」と異口同音に漏らしたが、これは多年両校の統廃合と取りくんできた人々にとっては、隠すことのできない感懐であった。建設費も当初予算できまり、新校舎建設のつち音は、四十三年の春早々に響きだすはずであった。しかし、生みの悩みには、もうひとつの関門があった。
 新校舎建設用地は、都市公園法によって公園緑地に指定されているので、この解除がなければ着工できないのであった。しかし、この折衝も区の理事者をはじめ区教委の懸命の努力によって四十三年六月いっぱいに終わり、すべてのお膳立てが整った。八月十六日には起工式が行なわれた。その後、工事は着々と進行し、四十四年一月現在の今、新校舎は早くも五階までの威容を見せ、まさに、来たる七月初め完成の予想を確実に示している。

(北芝学報『若鮎』昭四三)