明治初期の公立小学校

 〔第二中学区一番小学鞆絵学校(旧港区立鞆絵小学校)〕
                          芝區西久保巴町四十六番地
 芝區公立                           鞆 繪 小 學 校
一 教員ハ訓導兼校長一名訓導十二名准訓導三名助教一名合計十七名ナリ
一 生徒ハ高等科一二三四級合テ二十九名中等科一級ヨリ六級迄合テ百四十三名初等科一級ヨリ六級迄四百九
  十四名總計六百六十六名ナリ
一 受持ハ教員一名ニ付凡ソ平均四十名ノ生徒ヲ教授スルノ割合ナリ
一 卒業生ハ創立以來百三十六名此内中學校ニ入校セシモノ五十四名ナリ
一 職員俸額學力等ハ稍適當セリ
一 教科器械ハ理學化學ヲ始メ裁縫女禮式等ニ至ル迄完備セリ
一 建物ハ木造瓦葺平家百六十四坪二合五勺二階家五十八坪ニシテ總坪二百二十二坪二號五勺ナリ其構造ハ最
  堅牢ニシテ室内ハ空氣ノ流通及ヒ授業ノ便等渾テ宜シ
一 敷地ハ一千五百坪ニシテ最モ校地ニ適當セリ構内運動場二ヶ所アリ校ノ前後ヲ以テ男女ヲ區別ス
一 所屬地所ハ宅地一ヶ所此坪敷二十九坪九合一勺ニシテ附屬家ハ二棟アリ但現今貸付有之
一 經費ハ生徒授業料及ヒ貸地貸家料ト區内ノ協議費トヲ以テ教員給料其他書籍器械新調補理家屋修繕幷諸雜
  費等一切校費ヲ支辨スルモノナリ
一 公債證書額面百圓アリ之レハ年々利子ヲ積立置生徒中月謝ヲ收ムル能ハサル如キモノ學資ニ充ツル方法アリ
    〔略〕

(都公文書館資料)


 
【付記】明治十七年十一月鞆絵小学校が文部省から一等学事奨励品を附与されたが、本資料はその際の具申書に添付された学校沿革の一部である。
 
 
 
 〔第二中学区三番小学御田学校(現港区立御田小学校)〕
 發 端
明治五年中本校所在地ノ舊區劃ナル第二大區十小區ノ戸長町年寄等幼兒教育ノ必要ヲ感シ區内ノ有志者ニ說テ毎月參拾圓ヅツノ學資金ヲ醵集シ三田臺裏町藥王寺ノ堂宇ヲ以テ校舍ニ充テ開蒙社ト名ツケ山田行元ヲ聘シテ社長トシ十月六日ヲ以テ開業セリ此時生徒ノ集マルモノ約百人當時ノ教科ハ讀書作文習字ノ三科ニシテ讀書ニハ和漢洋書ヲ併用シ算術ハ筆算ノミヲ用ヒタリ而シテ兒童ノ貧困ナルモノニハ用書筆墨等ヲ與フ
藥王寺住職小林日禎モ亦大ニ此擧ヲ贊助シ堂宇ヲ貸シテ其報酬ヲ受ケザリシト云フ
 創 立
明治六年三月五日其筋ヨリ改メテ公立小學トナスノ命アリ第二中學區三番小學ニ列セリ其五月ヨリ校名ヲ御田ト稱ス
山田行元校長トナリ北村信政篠原吉亮ノ二人之ガ部下教員タリ生徒ノ數約百九十人
左ノ二十四名本校ノ世話掛トナル
 〔略〕
  第一回新築
明治十年三田臺町一丁目六番地(付近いろはにほノ地)ニ新築ス其九月開校式ヲ行フ敷地及校舍ノ略圖左ノ如シ
 〔略〕

(『御田小学校沿革誌』)


 
 
 
 〔第二中学区三十二番公立小学飯倉学校(現港区立飯倉小学校)〕
   公立學校設立伺
一 学校位置    第二中學區内第四十四番小學區 第二大區七小區芝森元町一丁目三番地
一 敷地坪數    五百十六坪七合内二百十六坪七合區内共有地 三百坪戸澤正實ヨリ借地
一 建家坪數    百七十一坪 内十五坪二階
一 校  名    飯倉學校
一 生  徒    二百七十名
一 教  員    九名但シ一名ニ付生徒三十三名 受持之見積
 〔略〕
前條之通區内協議之上教則校則等ハ渾テ御制定之規則ヲ遵守シ設立仕度此段相伺候也
                           第二大區四小區總代人
  明治十一年六月十一日                 從四位 眞 田 幸 民 印
                           仝   六小區總代人
                             從二位 徳 川 茂 承 印
                           仝   七小區總代人
                             從四位 戸 澤 正 實 印
                           右區町總代人
                             從四位 松 平 頼 英 印
                           仝 區長兼學區取締
                                 舘   與 敬 印
 
 東京府知事 楠本 正隆殿

(都公文書館資料)


 
 
 〔第二中学区三十九番公立小学芝学校(現港区立芝小学校)〕
   公立學校設立伺
一 學校位置    第二中學區第   番小學區 芝區芝新堀町三十一番地
一 敷地坪數    二百三坪  華族織田信及 所有地借用ス
一 建家坪數    七十八坪
 右在來之畫圖及其費用ニ係ル寄附金其他別册之通
一 校  名    芝學校
一 生  徒    百五十名
一 教  員    五名但一名ニ付生徒三十名ヲ受持之見込
  〔略〕
 
前條之通區内協議之上教則校則等ハ渾テ御制定之規則ヲ遵守シ設立仕度此段相伺候也
                            芝區三田同朋町々總代人
  明治十二年一月二十四日                   藏 野 吉兵衞 印
                            芝區三田一丁目同
                                手 塚 長 八 印
                            芝區芝松本町同
                                宮 澤 治 平 印
                            芝區芝金杦二丁目同
                                田 島 安太郎 印
                            芝區芝金杦二丁目同
                                内 田 政 之 印
                         東京府芝區長 相 原 安次郎 印
東京府知事 楠本 正隆殿

(都公文書館資料)


 
【付記】明治十年代の港区地域の公立小学校の施設規模はまちまちで、敷地は二百坪から千五百坪、生徒も百五十人から六百人と差があった。また、校舎は片側廊下、中側廊下と形はいろいろであるが、設立当初の寺院や神社の借り住いから脱却して、学校としての体裁を備えていった。

鞆絵小学校敷地・校舎平面図


御田小学校敷地・校舎平面図

(都公文書館資料)



飯倉学校校舎平面図


芝学校校舎平面図

(都公文書館資料)