2-1 計画地及び周辺の概況

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(1)計画地及び周辺通学区域
 ・計画地は、区の中央部、港区三田一丁目・二丁目に位置しています。
 ・赤羽小学校、赤羽幼稚園は北側敷地に立地し、道路を挟んだ南側には、取得用地の南側敷地が位置しています。

 

 ・所在地
  北側敷地:港区三田一丁目101番3
  南側敷地:港区三田二丁目37番10(旧都有地)
       港区三田二丁目37番9 (旧国有地)
 
(2)通学区域内の主な施設
 ・計画地は通学区域の中央付近に位置し、敷地に隣接して三田高校、周囲には各国の大使館や慶應義塾大学などの文教施設が立地しています。
 ・東・北西・南西方向の平地に住宅地があり、通学区域全体の多方面から児童が通学します。
 ・東京都済生会中央病院、国際医療福祉大学三田病院、みなと保健所など、公益的な施設も多い立地です。
 ・最寄り駅 北 :都営大江戸線赤羽橋駅
       西 :都営大江戸線・東京メトロ南北線麻布十番駅
       南東:都営三田線三田駅、JR田町駅

 

 
(3)土地の歴史
 ・計画地は、江戸時代、火の見やぐらと水天宮で有名な、筑後久留米藩の有馬家の上屋敷でした。有馬家の屋敷の敷地の大部分は「有馬ガ原」と呼ばれる空き地で樹木や雑草が生い茂っており、春は桜・れんげ・たんぽぽが咲き、品川沖が見渡せる子どもたちの遊び場となっていました。

当時の有馬屋敷を赤羽橋側より見る
(出典:時代風俗考証事典)

 ・計画地には、有馬屋敷当時から残ると言われる「猫塚(オセンチ山)」があります。
<猫塚について>
 猫塚(オセンチ山)は、文化財保護法により埋蔵文化財包蔵地(遺跡)に認定されています。本遺跡は、古墳として周知されていますが、平成20年度の試掘調査によって、近世以降の人造の築山である可能性の高いことが確認されています。
 築山と猫塚(塚石)の関係についてはいくつかの伝聞がおり詳細は不明ですが、人びとの伝統的な習俗として、石・木・塚・築山などが信仰の対象とされることがあり、こうした信仰をもつ人びとが、有馬屋敷にあった築山と「有馬の猫騒動」とを結びつけて、塚石を祀った可能性が考えられます。
 なお、「有馬の猫騒動」については、講談に描かれる粗筋を述べた三田村鳶魚の「御家騒動」が、『港区の文化財・第7集』に掲載されています。
教育委員会


現状の猫塚

 ・明治時代には、計画地周辺に、海軍造兵廠(しょう)(兵器製造所)などの官営工場が建てられ、大正の初頭には済生会芝病院(現:東京都済生会中央病院)が建てられました。
 ・大正15年(1926年)に初代校舎が完成しました。開校当初は現在の三田高校の校庭の位置に子どもたちが集まる釣り場があり、地域の憩いの場でもありました。
 ・現在の校舎は、昭和49年(1974年)に完成しました。

明治時代の計画地周辺地図
(出典:増補港区近代沿革図案 芝・三田・芝浦)


初代校舎外観
(出典:赤羽小30周年記念誌、50周年記念誌)


左:初代校舎校庭 右:初代校舎階段手摺
(出典:赤羽小30周年記念誌、50周年記念誌)

初代校舎は大理石の敷石、モザイクの柱、青いドーム、らせん模様のある階段、斜面廊下と広い講堂などが特徴的な建物でした。
 
(4)地形的特色
 ・計画地周辺は標高差の大きい地域です。
 ・標高は、桜田通りがAP+5~6mとなっており、三井倶楽部付近が最も高くAP+19~20mです。計画地はそれらの中間に位置し、AP+10~16mとなっています。
 ・標高差が大きいため、計画地周囲には多くの坂道があり、まちの大きな特色となっています。