麻布教育会付属幼稚園

   附屬幼稚園狀況
 我が附屬幼稚園は本會が日露戰役戰捷記念事業として且は戰後本會事業更張の第一着手として明治四十年四月一日設立したる本區に於ける唯一無二の幼稚教育機關なり而して本會がよく此一大事業を容易に施設し得たるは一に徳川侯爵家より非常の篤志もて其敷地建物の無料貸付の恩惠を與へられたるに由るものにして實に感謝措く能はざる所なり
 前年度に於ては草創の際とて所謂準備時代に屬したりしが本年度に至りては漸く整頓時代に向ひて着々進捗の域に入りたるは誠に喜悅に堪へざるところにして關係職員諸氏の勞を多とせざるべからず
幼稚園狀況の一班左表の如し
現 任 職 員 一 覽 表
氏  名職 名就職年月日勤續年月數
吉住幾久江保 姆明治四十年四月一日滿二年
藤澤皐月保 姆明治四十年四月一日滿二年
坂元ツヤ保 姆明治四十年六月五日一年十ヶ月
中村ヱチ保 姆明治四十年六月五日一年十ヶ月
鑓水忠直書 記明治四十年六月十六日一年十ヶ月
井關圭三園 醫明治四十年四月一日滿二年

在籍幼兒數一覽表(明治四十二年三月一日調)
種 別男 兒女 兒通 計
一 の 組二六二四五〇
二 の 組一八二七四五
三 の 組三〇一〇四〇
合   計七四六一一三五

保育濟證書ヲ授與シタル數ハ前年度末ニ於テ男兒三十一名女兒十九名計五十名本年末ニ於テ男兒二十六名女兒二十四名計五十名合計百名ナリ

幼兒住所別調査表(明治四十二年三月一日現在)
町 名町 名町 名
新網町一五宮下町櫻田町
飯倉町材木町山元町
市兵衞町笄 町北新門前町
森元町仲ノ町東 町
三河臺町永坂町一本松町
我善坊町簞笥町本村町
網代町六本木町三軒家町
飯倉片町龍土町其他區内一二
鳥居坂町霞 町他 區一二

幼兒保護者職業別調査表(明治四十二年三月一日現在)
種 別種 別種 別
商 業四三技 師僧 侶
會社員二二雜 業著述業
新聞記者
官 吏一五工 業家 從
軍 人一五教 員代議士
醫 師
藥劑師
無 業農 業

幼兒身體檢査成績體格一覽表 明治四十二年四月中檢査
 體格
性別
强 健中 等薄 弱備  考
男 兒一〇三〇一〇脊柱右彎一
女 兒一七

 
  役員選任
   本會及幼稚園役員
明治四十二年五月一日付を以て、會長、副會長、幹事、評議員及び附屬幼稚園、園長、評議委員等に、夫々當選狀を發送したり。其の氏名別項の通。
   委  員
同年六月十四日、講習會委員を左の諸氏に囑託したり。
 西村新太郎君  別所 鑑次君  徳尾 政均君  小暮 定吉君  小川 辰次君  小澤卯之助君
 月原 俊雄君  中澤 常造君  村松  一君  植村市十郎君  黒田 綱彥君  山田時次郎君
 山口壽次郎君  榎本 義道君  遠藤  忠君  佐藤信太郎君  水野久馬三郎君 森利  平君
 森 川 滉君  守田 近三君
同月同日、水泳會委員を左の諸氏に囑託したり。
 西村新太郎君  徳雄 政均君  小暮 定吉君  小澤卯之助君  月原 俊雄君  中澤 常造君
 村松  一君  植村市十郎君  黒田 綱彥君  榎本 義道君  佐藤信太郎君  森川  滉君
 森  利平君  鈴木 剛藏君
 
幼兒保護者職業別一覽表 明治四十五年三月三十一日現在
職 業員數職 業員數職 業員數
會社員二六工 業僧 侶
商 業二六軍 人代議士
官 吏二五教 員公 吏
醫 師一四新聞記者
無 職一二代 書

幼兒住所別一覽表 明治四十五年三月三十一日現在
町 名員數町 名員數町 名員數
我善坊町一三龍土町宮村町
飯倉町一一簞笥町狸穴町
材木町一〇綱代町宮下町
新網町新門前町木村町
市兵衞町森元町東 町
六本木町仲ノ町西 町
三河臺町飯倉片町芝 區一三
鳥居坂町永坂町赤坂區

幼兒身體檢査成績一覽表 明治四十五年五月施行
 體格
性別
強 健中 等薄 弱小  計
男 兒一五二五四九
女 兒一〇一三二七

幼 兒 入 退 及 出 席 槪 況
                 性別
種 目
四十四年四月現在在籍幼兒數四二二〇六二
自四十四年四月至四十五年三月入園兒數五五五三一〇八
同            上退園兒數二二一六三八
四十五年三月末現在在籍幼兒數七五五六一三一
四十五年三月保育證書受領幼兒數三〇一九四九
自四十四年四月至四十五年三月保育延日數二三四

 
附屬幼稚園は、前號會報に報道せし如く、前年度の半途に於て、徳川侯爵邸内の舊園舍より笄町なる慈眼院の假園舍に移りて保育を繼續したりしが、其の位置の本區の西端に僻在せるが爲めか、移轉當初に在りては、園兒意外に減少し、一時は維持頗困難に陥りたる狀況なりしかども、園長本山漸氏を始め、專務委員龜山市兵衞氏小澤卯之助氏森川滉氏及び評議員佐治實然氏村松一氏、主任保姆住吉幾久江氏其の他關係諸氏の盡力と援助とに依り、稍園運回復の曙光を見るものあり、斯かる狀況を以て進まば、近き將來に於て、漸く發展の緒に就くことを得べき望なしとせず、尚且本會役員其の他關係諸氏に於ては、適當の位置に移轉を企て一は以て本園設立の目的に副ひ、一は以て本區唯一の幼兒教育機關として、益々斯道に貢獻せんことを期したり。然るに本區名譽職並に理事者諸氏の學事に熱心なる、偶々公立幼稚園設置の議起り氣運の熟したることとて着々其の計畫を進捗し新たに宮村町に地を卜し、頗る宏壯なる園舍を新築し愈々本年四月を以て開園することゝなれり。於是、本會附屬幼稚園は、其と並び立つの必要なきが故に、役員の熟議を遂げ斷然本年三月末日限り廢止することを決し、其の筋に之が申請手續を了したり。因りて其の二十七日、廢園式を行ひて在園の幼兒は之を新設東京市麻布幼稚園に引繼ぐことゝせり。遂に明治四十年四月開設以來滿七年間、本會が徴力を致して以て、維持經營し、聊本區教育上に貢獻したりし附屬幼稚園は、茲に全く其の終を告ぐるに至る。而して此後身とも云ふべき公立幼稚園は、設備頗る完全にして、規模又大、當事者諸氏の經營宣きを得ば將來必ずや隆昌に向はんこと期して待つべきなり。洵に教育上の慶事と言ふべし。願ふに本會は本區幼兒教育の過渡期に在りて、微力を致して以て時代の要求に應じ聊斯道に貢獻したるは、宣しく之を光榮として窃に自ら悅ぶべく、それと同時に、此間該事業の爲めに盡瘁せられたる諸氏の功勞寔に多大なるものありしを感謝せざるべからず、然り而して、爾後公立幼稚園の漸次發展せんことは大に之に囑望して、衷心滿足する所なりとす。

(『麻布区教育会会報』明四五)