庶民夜學校開設之儀ニ付位置幷豫算之儀過般ニ談シ處別紙之通該校委員ヨリ申出候ニ付而者敢テ差支エ廉無之候條此段御回答ニオヨビ候也
明治十二年六月
芝區長 相 原 安次郎
學務課長
東京府一等屬 銀林 綱男殿
〔別紙〕
庶民夜學校開設之義ニ付御下問之御答
一 學校位置ハ櫻川女學ト定メ同校ニ於テ開設之義差支無之候事
一 月費ハ御下問之書面ニ依レハ平均一ヶ月金貮拾七圓六拾六錢七厘之割ニ相成候得共尚詳細取調豫算相立ル
處別紙之通相成申候然ルトキ下問之金額ヨリモ金八拾參錢參厘超過致候事 右御下問ニ付御答申上候也
櫻川女學校々務委員代
立野 胤政 印
明治十二年五月
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庶第一四六號
先般夜學開設之義校務委員ヘモ及協議候處飯倉學校ヲ假用候方辨理之趣ニ付右御承知相成度此段及御回答候也
追テ雜務掛リ之擔任スヘキ事務等モ有之候間需用掛之内流通不苦候ヘ共毫モ差支無之義ニ有之候也
明治十二年六月三日
東京府麻布區長 前 田 利 充 印
學務課長
東京府一等屬 銀林 綱男殿
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乙第七號
先般當區赤坂學校ニ於テ庶民夜學開設之件ニ付御口達有之ノ處御差支有無御間合之趣承リ右ハ何等支障之處無之候依テ比案及御回答候也
明治十二年六月三日
赤坂區役所 印
府廰 學務課御中
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明治十三年十一月十八日
學 務 課
芝區公立南海小學校務委員擔當區域内學齢兒童間就學スルコト能ハサルモノヽ爲ニ共立夜學校開設之義別紙之通屆出候條取調處不都合之廉無之被存候間因テ呈一覽候也
〔別紙〕
庶民夜學校開設之儀ニ付上申
私共校務委員擔當區域内不就學ノ學齡兒其外晝間習業ノ暇ナキ者實際ヲ熟思スルニ常ニ多少ノ患是アリ因テ漸次不學ノ徒ノ減少ヲ謀ルニ夜學ニ如クモノナキヲ發起仕候ニ付先試ニ校務委員一同協議ヲ以公立南海校内ニ於テ夜學校ヲ開キ別紙規則書ニ基キ本年十一月二十五日ヨリ施行致シ校費ノ儀ハ生徒ノ月謝及有志者ノ寄贈金ヲ以テ支辨ノ積リニ有之因テ規則書相添此段上申候也
明治十三年十一月一日
右校務委員
伊 藤三郎兵衞 印
井 口 久次郎 印
芝田町一丁目七番地 山 田 忠兵衞 印
花 澤 清 平 印
手 塚 長 八 印
田 島 安太郎 印
學務委員 浦 口 善 養 印
東京府知事 松田 道之殿
前書之通屆出候ニ付奧印仕候也
東京府芝區長 前田 利充 印
明治十四年八月二十四日
學 務 課
公立南海夜學校廢業屆呈覧候也
夜學校廢業屆
昨年十一月中私共校務委員一同之協議ヲ以テ公立南海小學校内ニ於テ夜學校ヲ開設シ晝間就學ニ暇ナキモノニ教授爲致候趣上申仕置候通爾來今日マテ實施致居候處今般當區々會之議決ニ由リ府立庶民夜學校ヲ繼續維持シ之レヲ三校ニ分チ其一ヲ本校ヘ附屬シ更ニ公立庶民夜學校ヲ開設セラレ來ル二十三日ヨリ施行相成候ニ付テハ是迄就學ノ生徒ハ悉皆引繼キ申候因テ最前私共ヨリ及上申置候夜學校ハ同日ヨリ相廢候條此段連署ヲ以テ御屆申上候也
明治十四年八月二十日
公立南海小學校務委員
手 塚 長 八 印
井 口 久次郎 印
田 島 安太郎 印
花 澤 清 平 印
仝校教頭 福 島 雄 兔 印
學務委員 浦 口 善 養 印
東京府知事 松田 道之殿
前書屆出ニ付奧印候也
東京府芝區長 奥 平 昌 邁 印
(都公文書館資料)
【付記】東京府は、庶民夜学校のほかに市直営の特殊小学校を設置した。昼間就学できない児童だけでなく、学齢過ぎても義務教育を修了しない者に、二年間でその課程を修了させる目的で特設されたものである。無月謝で学用品の給与もあった。授業は入学者に合わせて、午前、午後、夜間の三部教授であった。