元気一杯 学園疎開第二陣
『戦争に勝つために僕等はお父さんお母さんの許から沼津の戰時疎開學園へ行くんだ、けれどちつとも淋しくない、お友達も大勢だし、時々はお父さんやお母さんも會ひに來てくださる、僕等は强い日本の子供だもの、うんと體を丈夫にしてお國のために盡すんだ』――と赤坂區の疎開學童七十五名が十五日赤坂區乃木國民學校長川村兼五郎先生に引率されて沼津市我入道蔓陀ヶ原の戰時疎開學園に移つて行つた、さきに本郷區内の學童百二十三名が山の疎開學園那須野に行つたが、その後をうけて海の疎開學園の第一陣として沼津に行くのだ。
疎開學童は男子五十五名、女子二十名で三年生が十三名、四年生が三十四名、五年生が二十八名、乃木
赤坂 青山 青南 氷川各校の學童で午前七時半お父さん、お母さんやお姉さんたちに送られて東京驛に集
合、川村校長先生の注意をよく聞いて「行つて參ります」の聲も元氣に八時四十分発沼津行の列車に飛込ん
だ、それでも心配なお母さんたちが二、三人沼津まで一緒に乘車して「一人子なもんですから」と優しく氣
をもんでいた。
森が走る、畑が飛ぶ、車中はまるで遠足のやうなたのしさ。學園からの出迎への副園長積先生以下が「窓から頭を出さないやうに」「連結口の所に行かないやうに」としきりに氣遣ふうちにいつか學校の隔ても夢のやうになくなる、○○驛では兵隊さんと萬歳を交換、やがて予科練の歌や元寇の合唱が起る、次第に混んで來ると三人掛けを勵行して車内一同にヨイコの模範を示す頼もしさだ、國府津附近に來ると海が見え出す
「アッ海だ!」「白帆が見えるぞ」「地曳網だよ」
と憧れの海へわっと歓聲が沸く、かくて午前十一時四十三分沼津着學園の先生方や寮母さんに迎へられ、日蓮上人に由緒深い曼陀ヶ原の疎開學園に落ちついた。
入園式はお辨當を食べたあとの午後一時から講堂で行はれた、これからお父さんやお母さんの代りに世話をして下さる先生や寮母さん達に挨拶がすむと子供らは吉永先生、森田寮母さんに引率され裏手松林を通り抜け海岸へ出た、三時半まで愉快な體操だ、海岸から歸るとおいしいお團子のおやつが皆を待ってゐた。
「松」「竹」「杉」「梅」「櫻」と各寮の室割りも濟み、寮長も決められた、入浴、夕食が終り部屋のお掃除も濟まして、午後八時、みんな健かな疎開第一夜の夢を結んだ、第二日目の十六日は神社參拜、各所見物に過し、十七日からいよいよ勤勞生活に主眼を置いた授業がはじめられるが、そのうちには殘りの七十名が第二陣として入寮する豫定である、附添ひのお母さん達も陽光とオゾンに溢れる新鮮な空氣の中で嬉々として飛び廻るわが子の姿に大いに滿足して引揚げた。
(『毎日新聞』昭一九・五・一六)
園舎見取図
(『赤坂沼津学園同窓会誌』)