戦災児学園

赤坂区立沼津養護学園
一九四四・五・一五 第一次兒童七五名 「東京都立戰時疎開學園」發足
     六・一一   〃  第二次 四五名
     一〇・三一  〃  第三次 最盛期一二〇名
一九四五・六・三〇 東京都下府中に再疎開光明院、西藏院、善明寺、國分寺、興安寺に分宿、
     八・一五 終戰とともに遂次解散
    一二・五  「赤坂區立(?)戰災兒學園」發足 最盛期八〇名
一九四六・三・二一 六年生七名卒園
一九四七・三・二一  〃二一名卒園 學園解散
 
    戰災兒學園            昭和二十年十二月五日
 昭和二十年八月十五日、ついに日本は無條件降伏をし、太平洋戦爭の幕を閉じた。廣島・長崎に原爆が投下され、人類初めての試練が日本人よって實驗された。〔略〕赤坂學園の建物が無事だったので、赤坂區は戰災兒學園と銘打って、昭和二十年十二月五日開園する事になった。
 學園長(青南校長青戸藤平)、副園長(吉永一男)教諭(淺野てる子、飯塚義一)、寮母(小池菱子、村松美代子、仲臺いく)、賄(眞野松吉、内田ちゑ)の職員編成で出發した。
 戰前は物資の豊富な沼津市も全市灰燼に歸したので、頓に物資は不足した。
  〔略〕
 授業の方は複式でお願いし、私はもっぱら食糧の調逹に回った。砂糖の配給は金に替え、米軍放出のララ物資で甘味を補充した。燃料の確保のため、松喰い虫で枯れた松の木の拂下げを沼津市に申請、許可を得た。代金は私の一ヶ月分の俸給百拾五圓を立え替拂。高い所で切り落とすのが私の仕事。下で切り倒すのが眞野のおじさんの仕事。私の知らなかった吊るし切りはこの時覺えた。學園まで運ぶのは兒童の仕事……綱引きの綱で運ぶ。後割るのは私とおじさんの仕事、順調に薪ができて行く。炊事用、風呂用と……
 そこで雜炊の調味料として製鹽を思いついた。押入の天井に使用してあるトタンに目をつけ、長方形の鹽窯を作って、お手の物の海水を蒸發させる事にした。朝から海水を蒸發させていく裡に、結構塩が取れた。これを調味料に利用して雜炊が食べられる。
 雜炊に混ぜて榮養を取るため、朝早く起きて静浦に買出しにいく。おじさんは漁師仲間に顏が廣い。漁師への分け前の鰯を安く分けてもらって來る。これを開きにして、闇賣り、時には東京まで出かけて、區役所の人逹に買ってもらう。製鹽業が順調に進めば他の事もうまくいくもので、鹽を買ってくれる人も居る。
 沼津市の学務課長さんの厚意で、沼津市周辺の學校長に依頼して、何でも良いから兒童の一品寄付を募ってくれる。私は學校へ順番に寄付の野菜をもらいにいく。これで雜炊の中へいれる分が助かる。
 時に眞野のおじさんと、秩父のお百姓さんの所へ泊まり掛けで鹽一斗(六十㎏)と米二斗と交換に行く。學園經營も順調になってきた。しかし兒童の進學も心配だ。ついに昭和二十二年三月閉園、東京駅まで送って行って別れた。兎角勤務時間を言う現代の青年には務められない生活であった。
 兒童が誰一人痩せないで東京へ歸れたのは職員のご協力と、良き協力者の眞野松吉さんのお陰である。〔後略〕

(『赤坂沼津学園同窓会誌』)