親の暖い懷から別れて一週間、どんな生活をしているかと心配している親の所へ子供から手紙が屆く。一々檢閱もしていられないし、中には通學途上など自分でポストに入れるので、空腹を訴えるものや、親に會いたいとか、迎えに来てくれなどと書いたのを親が讀むとじっとしていられない。直接返事を書くのもあれば、麻布の留守番をしている校長のところへ陳情するということが續いた。その最盛期が九月の前半であった。そこで疎開地の寮の職員が、九月二日に全父兄に現狀を知らせ、安心するようにと葉書を出している。父兄からもこれにたいする感謝と依頼の便りを寄せている。
中には疎開する時に餞別としてもらってきた金で、無斷で歸った兒童があった。すぐ歸寮させたが、結局十三日に祖母が來て縁故疎開させることにした。其の後寮主任が打ち合わせて、逃げ歸るのを防ぐため、驛に東京行きの切符を求める兒童を注意してもらうよう頼んでいる。それでも夜東武線のレールを歩いて行く兒童が保護されたりした。
そのころの標凖的な寮の食事を寮日誌から例示してみると次のようである
*朝 麥飯 *晝 ジャガイモ *夜 スイトン *オヤツ ジャガイモ
味噌汁 コンニャク
香物 カズノコ
海草
この外、海苔、紙、食鹽、瀨戸物、酒、石けん、サツマイモ、牛乳、カボチャ、パン、梨、リンゴ、鮭、クリ、マッチ、糠、炭、里芋、自轉車、かもなどが九月中に配給になっており、ジャガイモ、風船、オ手玉などの寄贈品があり、空箱五十、傘二十二本、茶椀十四、火箸六、燒網、つけ物、うなぎ、傘、箸、ハタキ、砂などを購入した。
また、九月十日に父兄の奉仕會の人たちが來訪、十七日と二十五日には母の會の代表三名が慰問に訪れている。しかしこれらの父兄も必ずしも眞相を正しく傳えているかわからないし、中にはひそかに食品やお金などを持參するものがあって對策に苦慮した。
そこで學寮長の木村訓導が歸郷し、父兄會の席上くわしく事情を說明して納得してもらうことにしたのが、九月十五日であった。
木村先生の報告のメモによると、
・設備の狀況と、冬に對する準備
・食事の内容と一日の日課
・衞生狀況、特に理髪・風呂・病氣
・親との通信と檢閱
・學校の環境・兒童同志、地元の人びと
・周圍の狀况、特に市・町會・婦人會、後援會など
・面會、奉仕會、母の會など特に兒童は落付いているのに、母親が襟に金錢を入れて送ったり、天麩羅や赤飯を屆けて腹痛のもとになつたりする例をあげて、協力を强く呼びかけた。
父兄面會日の運營
父兄の不安を除き兒童を落ち付かせるために面會日を設けることは、關係者の間で早くより檢討され、九月十五日には既述のように木村學寮長より全父兄の會合で發表されていた。しかし、南山校兒童のみ獨走することはゆるされず、校長會としては決まっても、區の方では簡單に行かなかったことが、九月十三日付の小林校長の手紙に出ている。それは戰時下の窮迫した鐵道の一層窮地に落ちいることになるからである。寮日誌によると面會日が決定して知らされたのが十月の二日である。そしてこれによって兒童の態度が急に落付いたと記してある。
面會日の前後には必ず腹痛下痢などの病人がでたことである。參考の爲に寮日誌に記載された病缺兒童の數を一週間まとめてみると次の如くである。
八月二六日迄 八 一一月 四日迄 一〇 一月一三日迄 三六
九月 二日迄 一一 一一日迄 五 二〇日迄 二八
九日迄 一二 一八日迄 一 二七日迄 二六
一六日迄 一六 二五日迄 四 二月 三日迄 一一
二三日迄 二 一二月 二日迄 〇 一〇日迄 一〇
三〇日迄 一 九日迄 三 一七日迄 一五
十月 七日迄 〇 一六日迄 四 二四日迄 三
一四日迄 二四 二三日迄 一 三月 三日迄 二八
二一日迄 三 三〇日迄 〇 一〇日迄 三
二八日迄 一〇 一月 六日迄 八
以上の中で九月の上旬のものは、異った環境に適應できなかったものであり、中には親たちに會いたいための假病もあったらしい。十月のものは面會日の關係が考えられ、一月下旬から二月下旬までのは、寒期激甚の時期であるので、體力の弱い兒童が罹病している。三月二十七日の十一名の發病は、前日の六年生卒業歸京者一一五人の迭別會の御馳走が關係している模樣である。
(南山小学校資料 昭一九)