お別れ会と新疎開児童

    答 辭
昨年の昭和十九年八月二十九日、三十日の兩日に、懷しい父母の膝下を離れ、故郷東京の土を離れて此の鹽原の地に固い决意を抱いて集團疎開をして以來、共に勵み、心を一つに疎開生活に頑張って來た仲良しの班員の皆さんと別れて、僕逹六年生九十一名は、いよいよ來る二月二十三日、懷しい父母のいる東京へ、上級學校へ進學の爲歸る事になりました。四方を山に圍まれた山間の疎開地鹽原温泉。それは僕逹にとって明るく樂しいそして又思ひ出の深い絕好の鍛練地でして。六か月餘りの規律正しい集團生活は、僕達をこんなにたくましくしてくれました。東京にいた頃のふしだらな生活に比べて此方一日は何と規律正しいことでせう。みちがへる樣になつた心と體をおみやげに、半年餘りの集團生活をなし終えて今こそ勇んで東京へ歸るのです。
向かふへ歸ってもまづ第一に僕達を待っているものは、あの米機の空襲でせう。しかし僕達は頑張ります。たとへ武器はなくとも物干竿で憎いB29の大きな圖體を打ち落し、爆彈が落ちて來たらはじき返す樣な勢ひで。又上級學校に入校して工場に動員されても一人一人が特攻精神で飛行機増產にはげむつもりです。僕達の事はぜんぜん心配いりません。そのかはりみなさん達も僕達が行った後をしつかりと受け繼いで頑張つて下さい。特に五年の君逹は六年生の代りともなつて、よく下級生を指導しいたはってやって下さる事をお願い致します。そしてあくまでも此の櫻田疎開學園を死守して下さい。思へば六か月餘りの思ひ出深い長い月日は夢の如く過ぎ去り、親切な保母さん宿舍の方々と別れ、今迄の長い間僕達を我が子の樣にそだててくれた鹽原の土を離れるのは何とおなごり惜しい事でせう。寒さ嚴しい時には無限に湧き出る清い温泉が暖かい手をさしのべてくれました。おかげで寒氣嚴しい冬も無事通り抜け故郷へ歸る日も四日の後に迫りました。今かうしてみなさんと一緒にお別れの會を開いている時、此の六か月間の思ひ出が次々と目に浮かんで來ます。來たばかりの頃は水泳にもいきましたね。「ドボン」とプールへ飛び込む音がかすかに聞こえてくる樣です。やがて九月になって樂しい栗拾ひ、チクリと手にささった栗のいがの痛さも懷かしく思いだされます。やがて山々は紅葉におほはれ、又それも消えて雪の降る冬となり、お正月の面白い竸技會の數々は一生忘れられません。
お別れに當たって、皆さん方がしっかりと集團生活に勵む事を願ひ、健康と幸福をおいのりして答辭と致します。 終
  昭和二十年二月二十日                     天 野 榮 二
 
   六年生の卒業と新疎開兒童
 一月十八日に進學希望の父兄會が東京の學校で催され、二月上旬には内申書作りが行なわれた。疎開地で疎開地の學校に進學する者はなかったらしいが父兄もこの問題は時局がら思案に暮れたことであろう。
 記述のように二月二十四日には六年生の壯行式が多くの來賓を迎えて行なわれ續いて學藝會が催された。一日おいて二十六日には六年生の荷造りや神社の御禮參りが行なわれ、續いて學校や市役所などへお禮廻りをすました。翌日は、丹波屋寮から二十三名、全體で一一五名の兒童が、多數の見送りをうけて佐野驛を離れた。
 これと入れ代わって、三月十七日東京から佐野驛ヘ一六〇名、足利驛に二十六名到着した。丹波屋寮分は、新三年生男二二女一五、その外東京空襲の結果か、四年七、五年七、六年五の合計五六名が入居する。三月二十五日から春休みになったが、三年生の中には郷愁のあまり泣く子が出たり、二人の兒童が東武線を歩いて歸ろうとして引きもどされたりした。

(櫻田國民學校資料 昭二〇)


 
【付記】昭和十九年八月に集団疎開が始まり、三年から六年の児童が参加した。二十年三月に卒業を迎える六年は、二月の末に東京へ帰ってきた。塩原に疎開した桜田国民学校の児童が別れにあたり、宿舎、地域の人、五年生以下の人達へ感謝の答辞である。六年と入れ替わって新三年と残留していた四・五年児童が東京から疎開地に到着したのである。