集団疎開児童の手記

 思い出の記                      六 女  稻   久 子
五年の八月十五日に栃木縣へ疎開してからの事などが走馬燈のように思い出される。あの汽車の中での喜び顏、栃木縣へ着いてから、田んぼ道を歩きながらかたり合っている顏本當にあの時はうれしかった。やさしい父母の手もとから難れて遠い土地で、集團生活をしていると、つらい事うれしかった事などがいく度かあった。そのようなときには、父母のありがたさがしみじみと感じる。
疎開したときは、五年生だった。東京に住んでおられる父母のこと、兄弟の事が思いだされて泣いてしまった。よく男子が言った。
「おれたちなんか晝間泣くと先生にみつかるから、夜床のなかに入って泣くんだぞ」と言ったときはおかしくて笑わずにはおられなかった。
八月十五日 小俣驛に着いて、先生や大勢のお友達と一緒にあの田んぼ道を歩いていった。小俣國民學校に着いて村の方々の接待をうけた。あの白米の大きなおむすび。隨分親切だと思った。麥湯もごちそうになった。
さあこれから生活する學寮へいくと思うと、とてもうれしい。養源寺へ着き、四組と別れ、私たちはトラックに乘ってめざす宗泉寺へと向かった。お寺に着いたのが、四時半ごろ。とてもきたないお寺だなあとおもつた。お寺のなかに入り夕食をたべた。
すんだあと、梅谷さん、中島さん達とお手玉をしていた。梅谷さんといえば一番先に、縁故疎開で歸った人だ。少したってから先生が班別を決めてくださった。私は、一班だった。女子は二班にわかれた。その夜はあるきつかれたせいかぐっすりとねた。
二、三日たってからのことだ。中川さんが家を思い出したらしく泣いていた。その時分からみんな泣きだすようになってしまった。自分は學園へ疎開していたので父母のことを思い出しては泣かなかった。一月ぐらいたってから、東京から冩眞を送ってきた。その時は今まで泣くまいと思っていた私も悲しくなってきた。
十月二十四日 たのしい面會日
東京から、母・妹が面會にきてくれた。その時はとてもうれしかった。二ヵ月ぶりで家のひとと會ったときはなんだか顏があつくなるような胸がいっぱいになってきたように感じた。母がもってきてくれたゲームを妹や友達とやって遊んだ。その夜は久しぶりに、妹と寢た。次の朝「ああ今日はお母さんが歸ってしまうのか。」と思うと何だかさびしいような氣がした。學校から歸るとまだ母達はいた。午後二時のバスで母達は、足利へと向かった。その夜は「もういまごろどこらへんまでいっただろうなあ。」と考えたりした。〔略〕
 
・十二月二十四日 兄戰死のしらせで、私は東京へ歸った。そのころあまり空襲は激しくなかった。でも、東京にいるのは恐ろしくなって早くお寺へ歸ってきた。一週間ぐらい別れていた友達もなつかしかった。東京に歸ってせまい家に居て急に廣いお寺に歸ってきたのでお寺のなかが前より廣いように思われた。その日はちょうど十二時のバスがこしょうの爲、足利から三和村の宗泉寺まで歩いた。でもよい足のたんれんができたと思った。
 
・一月元旦 今年のお正月は宗泉寺でむかえた。村の人がお寺さんの土間で、私たちのお餅をついてくださった。お餅をつく人、こねる人、汗だくだくだ。今年はおいしいお餅がたくさんいただけたのを、皆喜んだ。〔略〕
 
・三月十八日 弟、妹達が三和村に疎開してきた。私はいつまでも一緒に暮らしていたいと思ったが、六年生になるし、山水寮へいかなくてはならない。その夜は妹と一緒に寢て、東京のいろいろな話を聞いたりした。妹も廣いお寺へ來て生活するのがうれしいらしい。なんだか東京がなつかしくなった。妹たちは次の日先生と山のぼりにいった。妹は山登りは始めてなのだ。五日ぐらいたって今度六年生になったので、山水寮へいって生活することになった。少しだけど妹と暮らせたのはとてもうれしかった。三日間の間に山水寮へ持てるだけの荷物をもって運んだ。明日は、いよいよ山水寮へいくと思うと妹と別れるのがつらかった。次の日最後の朝食をたべてふとんなどをかたづけた。村の方々がむしろでふとんを包んで下さった。いよいよ宗泉寺を出て、山水寮へ出發した。お寺さんのおばさん達が手を振っておくってくれている姿も豆のように小さくなってしまった。
 
・山水寮の生活
お晝の時、松泉閣の庭で大きなおむすび三つもたべた。その夜はつかれたのでぐっすりと寢た。なんだか、天井がひくいので、東京の家に住んだように感じた。次の朝とてもよい天氣だった。寮の小母さん達に「これからお世話になります」とご挨拶した。
山水寮へいってずいぶん薪運びをした。ある時はいっぺんに背負った。汗びっしょりになった。それから大きなそだを山の中から運んだ。始めは背負っていたがしまいにめんどくさくなってひきずってきた。
山水寮へいつてからは音樂會などたびたびやった。それからまわりの景色も冩生した。松泉閣の池のまわりにつつじの花が咲いてとてもきれいだった。
七月の末ごろ東京から母と兄が面會に來た。東京の話を聞いたり田舍の樣子を話してあげたりした。その日松泉閣の裏山で杉葉拾いをした。夜は久しぶりで母と一緒に寢た。次の日學校の歸りに、お辨當を持って宗泉寺へいき母と一緒に妹の荷物の整理をした。午後三時ごろ寮へ戻った。私たちは宗泉寺にいる弟や妹達に學藝會を見せることになった。宗泉寺へ行ったときはまだ母は妹の所にいた。宗泉寺の子達は喜んでいた。六年生の女子の中で宗泉に弟、妹達がいる人達だけ、七人今度宗泉寺へいくことになった。五日ぐらい前に小澤先生がいらっしやった。今度小澤先生は、堀先生と入れ代わりになられて、山水寮にいられることになったのだ。宗泉寺へいく前の晩、二階へ集まって音樂などした。次の日、雨が降ったので次の日にのびた。どんなに妹が喜ぶだろう。朝になって、今まで暮らして來た寮と別れるのがつらかった。その日もあいにく雨がふっていた。
先生は、あまりながくなってもと言われて、十時ごろでかけた。バスに乘っていった。宗泉寺に着くと、弟や妹達が坂の所までむかえにきた。妹のうれしそうな顏。
次の日は良い天氣だった。山にのこっていたお友達が、私達の荷物をもって宗泉寺まできてくれた。堀先生私達七人で山水寮へふとんをとりにいったりした。宗泉寺へいった私達は、今度三和校の六年生の人逹と一緖に勉强することになった。
始めのうちは、なんだかはずかしかったが、だんだんなれてくると、村の子の家へ遊びにいったりしたこともあった。
九月の末ごろ、母と兵隊から歸ってきた兄とが面會に來た。
夜中、あまりノミにさされてかゆかったので起きてしまった。ずいぶんノミにさされた餘りかゆかったので晩などはろくに眠れなかった。宗泉寺へいってから、お月見會などやった。寮母先生方が作って下さった。おごちそうはとてもおいしい。夕食後、音樂をしたりした。 このようにたのしくお月見會ができるのも東京のお母さん達のおかげだと思った。野菜運びから歸って來た人達がいま、奈良岡先生がいらっしゃって、東京へ歸る日は十月二十四日ときまったのよ。と知らせてくれた時は、顏があつくなるようによろこびでいっぱいになった。みんなの顏はいきいきとしていた。お寺で暮らすのもわずかだ。三和村のお友達と學校でお別れの式をした。
 
・三和村出發
十月二十四日良い天氣だった。朝早くから先生方は、お忙しそうだった。たくさんおみやげができた。おしょうさんにお經を讀んでいただいて佛樣にお別れをした。十時頃のバスで山前にむかった。田んぼには稻が重そうに穗をたれていて黄色くなっている。みわたすかぎり田んぼがつづいている。このすみなれたお寺や村と別れるのはとても名殘りおしかった。この疎開ということは一生忘れまいと思った。大きくなってからの、おもしろい思い出になるであろう。

(笄小学校資料 昭二〇)