御田小学校と千屋小学校の交流

  秋田県千畑町千屋小学校と東京都港区御田小学校の交流
   事業実施の契機と経過
 千屋小学校と東京都港区御田小学校の交流事業は、御田小学校の子どもたちを千屋小学校の子どもたちの家に滞在させる事業にはじまるが、現在は、それに加えて、千屋小学校の子どもたちが御田小学校の子どもたちの家に宿泊する相互交流事業として定着している。対象は四年生以上の子どもの希望者であり、継続的な参加も多い。期間は当初より三泊四日であり、現在は夏休み期間中に受け入れと訪問を行っている。
 この交流は昭和五十二年八月二十五日にはじまる。きっかけは、当時の御田小学校のPTA副会長が千畑町千屋地区出身者で、農山村にふるさとをもたない東京の子どもたちに農山村の生活を経験させようとしたことにはじまるが、準備は二年程前から行われていたという。副会長の兄が同級生や当時のPTA会長、あるいは仲間に働きかけ、これに賛同する人たちではじめることとなった。宿泊を受け入れたのは九戸であるが、このほか教育長、学校長をはじめとする教師、公民館長等の協力を得ている。すなわち、行事として小学校への一日入学や村内見学における案内と説明が組まれ、また、懇親会の出席等に多くの人間の協力が行われたのである。だが、これらは個人的な対応として行われ、事業の実施に際しても有志者の好意による受け入れと性格を持ち、「やや強引に実施に踏み切ったのが次の年のことだった。東京の子が二十数名来村したのである。一方的に押し掛けて来た、という感が強かった」(千屋小・御田小交流の会十周年記念誌)という言葉にもあらわれているように、受け入れ事業として必ずしも合意ができていたわけではなかった。〔略〕
 昭和五十六年から受け入れだけでなく、御田小学校を子どもとともに訪問するようになってからは、協力は一段と行われるようになったようである。そして現在では、受け入れと訪問が一体のものとして意識されることが多く、子どもが御田小学校を訪問した際に宿泊した家庭の子どもを受け入れるようになっている。
 この事業の実施主体は、現在、受け入れ側も送る側もいずれもPTAであり、御田小学校の場合は事業に学校そのものの関わりはなく、歓迎会等に学校関係者が参加するだけであるが、千屋小学校の場合は、学校行事と関わりをもたせていることは前述したとおりである。PTAの組織としては、次第にPTA全体の事業という性格をもつようになってから組織づくりが検討され、昭和六十一年度から千屋小学校PTAのなかに御田交流部をおき、御田小学校側と連絡をとりながら事業の計画と実施にあたるようになっている。それには千屋小学校はほとんど関わらず、受け入れに関する学校行事と事業の調整に多少の問題を残しているといえる。なお、担当は、六十一年度はPTA会長が交流部長を兼務し、翌年は副会長の兼務となり、活動している。
 経費は、受け入れに関しては参加した子どもから協力金を徴収しており、受け入れた家庭にたいしては一泊二千円の援助をしている。ヤマメ採りの経費をはじめとする諸経費が協力金の範囲で支出されるが、もちろん事業の経費がこれで足りるものでないことはいうまでもない。したがって、千屋小学校PTAの予算に交流のための経費が計上されており、このほか個人的な出費も加わる。このことは御田小学校を訪問する経費も同様である。子どもの場合、御田小学校を訪問する場合には、約二万五千円かかるという。このほか小遣いを一人五千円と決めているようである。
 民泊における普段の体験の内容は、後に述べるように、それぞれの家の対応として行われているが、おおよそ家のなかで同学年の子どもと仲間遊びをしたり、家のまわりでいっしょに遊んでいる。
 また、引率者の傾向として、これまで長く引率者の宿泊を引き受けてきた民泊先の奥さんは、「最近夫婦で来るようになり、いいことだ」という。確かに子どもといっしょの、単なる見物や見学の旅行としてではなく、農山村の生活に直接ふれるという点で、親にとっても大きな意味をもっているといえる。
 さらに、この事業を通じて、お互いの子どもや両親がその後さまざまな交流をもつようになっている。子どもは電話や年賀状のやりとりをしたり、親は野菜やくだもの、お菓子の贈答がくりかえされている例も多いようである。相互交流の後、個人的に子どもと両親が千畑町に遊びに来た例もあるという。〔略〕
 
 相互交流の児童数の推移
御田小→千屋小千屋小→御田小
期  日訪れた児童数受け入れた数
(0)=その年初
めて
期  日訪れた児童数
4 年5 年6 年4 年5 年6 年
1昭和52年
8月23日
 ~26日
男 8221512 7
女 3003
2昭和53年
8月25日
 ~28日
男 075281212(10)
女 47516
3昭和54年
8月24日
 ~27日
男 764※462119(15)
女 711325
4昭和55年
8月22日
 ~25日
男 826381623(11)1昭和56年
1月7日
 ~10日
男 225229
女 1110122女 52613
5昭和56年
8月21日
 ~24日
男 03214510( 3)
女 5409
6昭和57年
8月20日
 ~23日
男 800188 9( 2)
女 28010
7昭和58年
8月26日
 ~29日
男 19120673133(22)
女 1414836
8昭和59年
8月24日
 ~27日
男 20109723938(15)2昭和59年
7月28日
 ~30日
男 215238
女 1313733女 35715
9昭和60年
8月23日
 ~26日
男 6165382726(13)3昭和60年
7月27日
 ~29日
男 2912412
女 72211女 27312
10昭和61年
8月22日
 ~25日
男 131116684044(20)4昭和61年
7月26日
 ~28日
男 41053619
女 910928女 26917
11昭和62年
8月21日
 ~24日
男 91018683734(11)5昭和62年
8月1日
 ~3日
男 25102317
女 221331女 0156
12昭和63年
8月26日
 ~29日
男 31110442425(11)6昭和63年
7月  
男 1672414
女 610420女 40610
※ この年のみ卒業生(中学1年)8名を含む。(御田小学校資料『千屋小・御田小交流の会十周年誌』)