府立第二十二中学校創立当時の思い出

                               初代校長 星  一雄
 めまぐるしいこの十数年は、思い出を書こうとすると遠い遠い昔のようでもあるが、その反対に極めて昨今のようでもある。
 昭和十七年の二月の何日かに私は新設校の校長になれと云われた。
 その前の日まで誰がやるかわからない新設中学の入学準備のために役所で骨を折っていたのに、その学校に自分が出てすぐ入学準備をやらなければならない。職員は誰もいないので仲間の視学連中が手伝いに来て開店したような訳、そして学校の名前も何と二十二中学校である。
 学校はどんな風な学校にすべきか、誰でも偉そうなことを言うが、私は人に後指を指されないような学校、極めて素直な学校であってくれと希望し、それを自分の心のモットーともし、生徒にも話して来た。
 学校の歴史は戦争と結びつき、しかも敗戦の色濃くなった頃に呱々の声を挙げたのである。青南小学校を借りて入学試験をすることにしたのだが、真実に空襲があって試験が出来ないときはどうしようと考えた。そして父兄生徒志願者を最初に集めたときにその場合の具体的手配もした。幸に無事に初めての生徒三百人かを、青山師範の寄宿舎だったのを改造した少々細長い教室の仮校舎に入れて学校を始めた。
 教室は二部屋を打ち抜いた細長い教室だから教室の後の方には各空間がある。室内運動場付教室とでも云えるもので冬の寒いときなどは運動場は泥んこなので、生徒はよくこの室内運動場を利用したらしい。
 東京都心部に生徒が少くなる傾向があらわれたので、其の頃東京府と東京市とが話し合って(その頃は東京都がなくて東京府と云うのがありその管轄下に東京市があったのだ。)新設中学で校舎建築に着手していない幾校かゞ既設の小学校の校舎を転用することになった。それで仮校舎から今の校舎(元麻布高等小学校の校舎)に移転することになった。この頃から戦争の様子が次第に悪くなって運搬用の車がなく、移転のときは苦労して馬力を頼み、品物の大部分は生徒の手で青山から墓地の側を通って今のところに運んだのだ。あの頃の教師と生徒との姿が目にちらつくようである。
 そうこうしている中に新らしい生徒が入学して来る。机を頼むにも一苦労。比較的良いものを頼んだのだが、その家具屋は池袋から少し離れたところ、机は出来たが、トラックや馬力の手配がつかぬ。学校で父兄の力を借りてやっと二台の馬車を用意したがそれではどうしても不足である。先生と生徒と話し合って、窮すれば通ずるの話の様に弟分の新入生の机を一人で一人分ずつ運んでやれと云うことになって池袋の郊外からこゝの校舎まで各自が縄で机を負い蟻の行列の様にして運んで来たことがあった。朝日新聞かどこかの写真班がそれを撮って学校にも持つて来てくれた事があるから、何処かに創立当時を偲ぶものとして保存してあるだろうと思う。
 苦労の多い時期に創立された学校だが、そんな中から学校の気風を生み出すことも考えた。最初に平凡でも人に後指を指されぬことをモットーにしていたために変な校訓めかしいことは作らなかった。たゞ世の中には誰でもやりたがることと、誰でもやりたがらないことで誰かゞやらねばならないことがある。修身なんかで職業に貴賤の別なしなどと空題目を唱えても、唱えている本人がいゝ加減のものも多い。学校の中にも、学生生活にもそれがある。前に書いたように運搬にはトラックは勿論馬力さえ頼み難い時勢になると学校に小使さんを雇うことが容易のことではない。今から考えると隔世の感とも云うべきだが――これが十年前のことですぞ――小使さんが不足する学校には生徒があり先生がある。そうすると自分達のことは自分でせねばならぬ。その困ったものが便所の掃除だ。誰も好きでやりたい仕事ではない。しかし大切な仕事だ。そこで世の中で大切な仕事で誰もやりたがらない仕事を、一番上のものがだまってやろう。それが社会改造の一つの仕事であると話をしたら、そうだと共鳴して第一回の入学生(これは卒業まで毎年最上級であった)が何時も上級生だからと云うので五年間だまって便所の当番を引受けたのだ。この風が残っていれば尊いものだが残っているかどうか。誤解することのないように、便所掃除することではなくその心構えの気心を云うのだ。
 新設校の気風も出来かゝったときに学校教育がめちゃくちゃになる時が来た。空襲につぐに空襲、敵機は夜毎日毎にやって来る。屋上に上ってありたけの声を出して生徒の指揮をしたことは今思い出すと涙が泌み出て仕方がない。地下に防空壕があったので登校時にはそれに生徒を逃避させるに懸命。今考えるとぞっとする。果して逃避させることが安全であったかどうか。登校下校の途中だと、成るべく早く少しでも安全なところに逃避させるためにメガホンを持って屋上からどなり続けた。その中に行学一体と云ふ名文句(迷文句也)によって小さい中学生までが工場に動員された。目黒・品川方面の四つの工場に出動することになった。工場に出た城南の生徒はどこでも賞讃を博した。これは御世辞でなく実際である。一度日本光学会社、(当時海軍の指定工場、今のニコカメラの会社)には四、五校の生徒が一緒に動員されていたが、その会社で表彰式があったが、一番小さいしかもおそく工場に這入つた城南の生徒がその表彰の大部分であつた。幾人であったか数は忘れたが表彰状の束の厚みだけで殆んど全部うちの生徒が表彰されたようだ。〔略〕

(『都立城南高校一〇周年記念誌』昭二七)


 
【付記】現在の都立城南高等学校。昭和十七年二月五日、東京府告示第一一六号により設置が認められ四月より開校した。回想記発表時筆者は都立九段高等学校校長。