港区よりの委託受け入れ
正則の場合は、前述のように、昭和二十一年四月からは都立芝商業学校の校舎の一部を、さらに二十二年一月以後は旧愛宕国民学校の二教室も借用していた。ともに都及び区の好意による。新制中学校発足に当たり、都から協力を求められては断わるわけにもいかない。と同時に、生徒募集の手数と経営上のリスクが避けられるという気持もあったであろう。ほとんどためらわずに、委託の受け入れに応じている。ただし、旧愛宕国民学校の校舎を利用して設立される愛宕中学校とともに、引き続いてその校舎の一部を使用するという条件においてである。したがって正則への委託は、独立校舎が不足したためなのではなく、独立した教職員組織を求めたことによると理解できる。中等教育に熟練した教師集団の利用ということも考えたのであろう。
〔略〕
昭和二十二年度の第一学年は、四月当初において一四九名であるが、指導要録の原本または写しがあり、「入学前の経歴」に卒業小学校名の記載がある者は一二六名であった。昭和二十三年度の入学者は一五二名だが、これも卒業小学校がわかる者は一二〇名である。
〔略〕
出身小学校の記入がある限りでは、昭和二十二年度・二十三年度とも御田小学校卒業生は皆無であった。同時に、委託期の中学校生徒の「卒業後の進路」について、ほぼ正確に把握することができた。「入学前の経歴」については赤羽小学校卒業に、「卒業後の進路」については正則高校入学に重点をおいてまとめると、次の通りである。
二十二年度入学 | 二十三年度入学 | |
赤羽小学校卒業 その他小学校卒業 卒業小学校不明 | 一一三 一三 二三 | 九〇 三〇 三二 |
入 学 者 計 | 一四九 | 一五二 |
他中学校より転入 旧制休学者が編入 他中学校へ転出 | 一九 一 一三 | 一二 〇 一四 |
卒 業 者 計 | 一五六 | 一五〇 |
正則高校入学 他高校入学・就職等 | 五〇 一〇六 | 六四 八六 |
委託受け入れ後の経過
港区より受け入れた生徒による新制中学校第一回入学式は、昭和二十二年四月二十九日旧愛宕国民学校において行われた。そして、正則の歴史のなかではじめて女子生徒を迎えたのである。旧愛宕国民学校の校舎といっても同時に港区立愛宕中学校が設立されているから、「愛宕中学校と同一校舎を使用して」というのが正しい。
〔略〕
新制中学校の第一回、第二回卒業生は、旧制中学校の昭和二十年度、二十一年度入学者が新制に転換したのだから、委託生徒の卒業は、二十五年三月の第三回卒業生と、二十六年三月の第四回卒業生である。委託生徒の学年の担任は、都立高校や、生徒が志望する他の私立高校へ、一人でも多く入学できるように進路指導に全力をあげた。都立の数が少なく、公立中学校でもクラスの上位数名しか都立に合格しなかった時代である。日比谷高校や三田高校への合格数に、正則の教師が夢中になったのだから奇妙な話である。正則以外の私立高校へ志望通り合格したことを心から喜んだのだから、美談でさえある。中卒で就職する相等数の生徒のために行う就職先開拓も、公立中学校に劣らない努力をした。男子生徒で正則高校進学を志望した場合はもちろん、他校を志望して不合格であった者も、正則高校に入学させた。何らかの形式的な選考はしたであろうが、ほぼ全員のはずである。問題は女子生徒の場合である。学校は、保護者に都立または私立女子高校への進学を申し渡し、生徒にもそのように指導した。公立中学校なら男女ともにそうなのだから、冷淡なわけではない。ところが学年末近くになってみると、志望校の選択に誤りがあったりして、進学を志望しながらどこにも合格しなかった多少の女子を生じた。委託とはいえ三年間指導してきた生徒を見捨てるにはしのびないという、正則独特の人情論がでてくる。正則高校を都立のように共学にすれば、そこに収容できるというわけである。
〔略〕
昭和二十五年四月から正則高校は共学校になる。正則が共学校になることになったので、他の女子高校に合格している生徒が、正則に残った場合もあろう。そして女子の一般募集もしたから、公立中学校や他の委託中学校から入学した、何人かの女子もあった。したがって委託生徒である正則中学校第三回卒業生一五六名中に、五四名の女子があり、これを含む正則高校第五回卒業生一二五名中に、一三名の女子がいるが、このなかの七名が正則中学校第三回卒業生である。高校二、三年への女子の編入も認めたから、高校第三回卒業生に三名、第四回卒業生に二名の女子がいる。委託の第二年度に当る中学校第四回卒業生は、一五〇名中四三名が女子で、これを含んでいるのに、高校第六回卒業生一六八名のなかには女子がわずか四名となる。内二名が中学校第四回卒業生である。
(『正則学院百年史』)
(二) 東京女子学園
昭和二十一年二月十六日、戦争のために四年間に縮められていた女学校も、五年制にもどることになり、四年の卒業を希望する者は特例としてそれも認めた。
昭和二十一年三月、来日した米国教育使節団は、日本の義務制の組織について勧告した。政府はこれをいれて同年十二月文部省から、「六・三・三・四制」を行ない、このうち「六・三」を義務教育とする決定を発表し、翌年三月教育基本法・学校教育法が公布された。本校も中学校・高等学校各三年に分けられて設置されることになった。
栗本校長は港区役所に出頭を要請され、委託問題を協議した結果、委託を受諾しなければならないことになった。委託とは、学制の改革によって小学校六年に加え中学三年までが義務教育となったので、本校が付近の小学校(御田、品川、南海)の卒業生(男子とも)を、都から委託を受けて三年間の中学校教育をすることである。
港区内の小学校卒業生を収容する施設が不足していたことが第一原因で、区内の私立五校が受諾して協力することになった。なおこれは二十二年度だけで中止することになった。これによって、二十二年四月より二十五年三月まで、元来女子校であった本校に、男子中学生が在学することとなり、施設の改善など、目まぐるしいものがあった。また女子校としての歴史の中での特異の三年間であった。学校名は一時「東京学院中学校・高等学校」と改めることとなった。
(『東京女子学園八十年史』)
(三) 頌栄女子学院
新学制の実施は、米国教育使節団報告の発表後約一年という、極めて短期間に強行されたのである。これによって港区にも十校の新制中学校が設置されることになった。ところが新制中学校は、独立の校舎を持つことが建て前であったにもかかわらず、母体となる旧制の学校がなく(旧制中学は新制高校になった)、発足当初から施設の不足が最大の隘路となった。そのため東京都は各区内で施設を持っている私立中学校に生徒を委託することを考えた。
頌栄も東京都および港区の懇請を受け、自由募集を中止して区立中学校の生徒を男女ともにそのまま預かることを受諾した。この委託は昭和二十二年四月一日から始まり、最初一年間の契約が、区の校舎建設がはかどらないために延期をかさねて、ついに昭和二十六年(一九五一)三月三十一日までの四年間に及んだ。その間、文部省は学校施設補助金を予算に計上したが、昭和二十四年度には超均衡予算政策のあおりを受け、六・三制施設予算は全額削除され、市町村当局は最大の苦境に陥ったこともあった。
区の教育に協力する意味で委託中学生を収容したものの、社会環境の悪化、食糧事情の窮迫等言語に絶する悪条件の中で、特に経験も設備もないままに男子生徒を受け入れて教育することは、女子教育一筋に歩んできた頌栄にとって並みたいていの苦労ではなかった。昭和二十三年三月の卒業式における学事報告は、次のように述べている。
東京都及び港区の懇請によりまして、委託生として、百九十八名の男女の生徒を受け入れました。未だ世の情勢はあらゆる方面で、なかなか男女共学というところまでいっておりませんし、本校の設備等も女子教育に適する様になっております関係上、本校と致しましては多大の困難を忍び、幾多の犠牲を払って教育第一主義でやってまいりました。新学年度は女子のみの委託を受け入れることになりました。
簡単な報告であるが、このことばのかげにその困難さをうかがうことが出来る。そしてこの結果、二十三年度からは女子生徒だけを預かることになった。時の辻村校長は次のように述べている。
学制改革により、昭和二十二年から男女共学となり、慣れぬ教育に一苦労した。都の委託により頌栄には白金、高輪台小学校の女子卒業生を、高輪(現・高輪学園)は両校の男子卒業生が割り当てられた。
この一文だけでは分かりにくいが、昭和二十二年度に受け入れたのが白金小学校の男女卒業生であり、翌二十三年度に受け入れたのが、白金、高輪台小学校の女子卒業生であったということを意味している。
この昭和二十三年(一九四八)四月には新制の頌栄女子高等学校が発足した。中学の卒業生は頌栄の高等学校へ進学出来るようになったが、男子中学生の進学希望者は他校を受験しなければならなかった。この委託制度による中学生が卒業したのは昭和二十五年(一九五〇)三月と昭和二十六年(一九五一)三月とであった。男子委託生だけでなく、女子委託生にもそれぞれの希望に応じて進学、就職の指導がなされた。都立校への進学希望者も相当数あって、適性検査受験のための課外補習授業まで行われた。就職希望者のためには芝園橋職業安定所と密接な連絡をとって万全の指導が行われた。
(『頌栄女子学院百年史』)
(四) 高輪学園
新制中学が発足しても施設・設備・教員の不足は如何ともし難く、一部の私立学校に委託が行なわれた。この委託制はその後公立中学校の充実に伴い漸次停止されたため、これを引き受けていた私立中学校を廃校の危機に追い込むこととなった。また大部分の私立学校は公立の無償の中学校に生徒を奪われ、三か年の新制高等学校に中心を移さざるを得なくなった。戦後の凄まじいインフレで、私立の授業料が上昇するに従ってその傾向は一層強められ、私立学校はその規模の縮小を余儀なくされたのである。
さてわが学園でも新しい学制を取り入れた改革がなされ、二十二年四月一日より新制の「高輪中学校」が発足し、篠原勇造が校長に就任した。旧制の高輪中学校並びに高輪商業学校で学んでいた生徒で一か年および二か年を終了した者は、それぞれ新制中学の二年生、三年生に組み入れられたが、その数は三年生が二百六名、二年生が二百九十五名であった。
なお二十二年四月に入学した新一年生は百八十五名であった。
ところで東京都では新制中学生を受け入れる準備が整わず私立に委託することとなり、委託費は公費で賄うことを条件に五十八校の私立学校を選定し委託を依頼した。本校では旧制高輪商業学校がそのうちの一校に選ばれ、港区の委託生を引き受けて「高輪第二中学校」と称した。二十六年三月公立中学校が整備されて廃止となったが、その間に卒業した生徒数は男子七百五十名、女子五十五名、合わせて八百五名に及んだ。
(『高輪学園百年史』)
(五) 順心女子学園
昭和二十二年四月一日学校教育法により東京都長官から順心中学校の設立が認可された。これによって新制中学として順心中学校が誕生した。新制中学校の生徒は過渡的取扱いとして昭和二十二年度は第一学年のみを義務就学とし、昭和二十四年度において全学年の義務化を完了することにしていた。従って旧制中等学校(中学校・高等女学校)においては、旧制の第一学年、第二学年の進級者をそれぞれ新制中学校の第二学年、第三学年に移行させて編成したため、昭和二十二年度においてすでに全学年をもつ中学校として発足した。全国的にみれば公私立の旧制中等学校以外で、まったく新たに設置された公立中学校のうち、独立していた高等小学校や高等科併置の小学校では旧制中等学校と同じく全学年編成ができたが、大多数の公立中学校は第一学年のみを以て編成された。新制度実施にあたり、多くの校舎が戦災を受けた東京都の情勢はきびしく混沌としていた。六年生卒業の全員を無事に収容するための苦肉の策として私立学校への委託制度をとることになった。戦争被害の少なかったと言われている港区でもその例外ではなかった。なお時期を同じくして東京都の行政機構の改革が行われ旧芝区、麻布区、赤坂区の三区を統合した港区が誕生した。わが順心学園には笄小学校、本村小学校のそれぞれの卒業生が収容されることになった。従って昭和二十二年度の順心学園中学校では一年生が男女共学の委託生徒で、二、三年生が高等女学校の一、二年の進級女生徒によって構成されることになった。地域内の区立中学校の新設がおくれたために、わが順心学園は昭和二十七年三月末まで満五年の長期に亘って委託学校を実施してきた。区立高陵中学校は昭和二十七年四月に開校した。区当局の焦眉の急に力を貸し、区民からも感謝されたとはいえ、女子のみの学園が初めて男子生徒を迎えての共学教育であったから施設の面でも、教学の面でも、多くの労苦やとまどいのあったことはいなめない。なお昭和二十五年四月から順心中学校の自由募集を開始していたから、昭和二十七年三月三十一日の委託教育終了を待って四月以降、全学年女子のみの編成となり、本来の女子学園の姿にかえった。
(『順心女子学園六十年のあゆみ』)