発足当時の港中学校の状況

                                  教諭 桂木 徹
戦争の爪あとがまだいえない頃鉄道唱歌で有名な愛宕の山の下に、爆撃の目標をさけるため真黒くカムフラージュされた黒ずんだコンクリートの建物があった、まわりは戦火で焼きつくされそのあとにポツポツとバラックが建てられとはいえまだまだ焼けあとの整理も行きとどかず荒れはてた状態である。国破れて山河あり城春草木深しをひしひしと感じさせる有様である、この建物こそ愛宕高等国民学校である。高等国民学校といっても現代の三十才以下の方々に解らないかと思うが現在でいえば小学校の六年を卒業した人々が希望によって入学し二年間勉強して実社会に出ていった学校である勿論義務教育ではないから中学校には進まないがもう少し勉強したい人々の集りである。その愛宕高等国民学校が終戦という大きな出来事をさかいに日本の学制改革によって新制中学校即ち港中学校として衣更えしたのである。環境の廃虚、黒ずんだ校舎、こわれた硝子窓、爆風よけの×字型の紙張りの窓、うすぐらい教室、長い間手入れされない穴ボコの運動場、まるで廃虚のような建物の中で昭和二十二年四月二十九日港中学校の開校式が挙行されたのである。生徒の組織は一年生は南桜小学校と西桜小学校の六年を卒業したもの、二年生は愛宕高等国民学校の一年を修了した者三年生は同校二年を卒業した者を収容することになり六学級全校生徒数三一四名でスタートすることゝなった。
工業高等学校が校舎がないのでこれと同居することゝなった、狭い校舎に二校もが戦後だからやむを得ないことだと教師も生徒もお互いにあきらめあってようやく五月五日の端午の節句、今の子供の日に授業を開始することとなった、校長先生、教頭他七名と僅かな先生数である。何の設備のないうすぐらい物置きのような職員室が港中教育のはじまりの場であった。
   〔略〕
昭和二十二年創立当時は食糧事情がよほど悪くて発育不全、栄養失調で顔色のすぐれない生徒達が多かった。そんな生徒が狭い教室に六〇人ばかりつめこまれ、服装も制服はなく和服を洋服に更生したものもありカーキー色の服もあり手拭で作られたシャツを着ているものもあり全く色とりどりである。使用した教科書も四六判の全くそまつなもので紙質も色あいもまちまちで、恥かしいほど貧弱なものであった。ノートも大変そまつなもので雑記帳よりそまつなものである。とても学習出来る状態ではない戦争の結果とはいえあわれを感じる。運動したくても用具はなく若さのはけどころがなく自分をもてあましていたものも多数あった。一種の浮浪児の集りのようにも見えた昭和二十四年校舎移転問題が起った。港中学校をそのままにして工業高校を他に移すか又は港中を移すかの問題がそれである。若し港中が移転すると学区がすっかり変わることとなり父兄にとっても大問題になりそうである。遂に問題は大きくなった。毎日毎夜PTAの会議がつづいた。そして区当局を囲んではげしい論戦が行われた。容易に解決つきそうでない。一年近くの論戦の結果遂に功運町十二番地に新校舎が建設されることになった。この地は功運寺の跡で前には聖坂という高野聖が開いたといわれる坂があるまことに展望のよい丘である。早速整地がはじまったが寺跡で墓地があったので仲々めんどうである。墓地から沢山の人骨が出たがすべて無縁仏なので集めて下のお寺で葬ってもらった。そして遂に今日の港中が建築されたのである。

(『港中・校舎落成記念特集』昭四一)