愛宕と北芝が合併して新しい学校ができる。
こんな話が、私たち愛宕中の教員の間にささやかれ出したのは、合併した年より五、六年も前だったと思う。
だから、その頃、私たちは、年度末が近づくと「愛宕もいよいよあと一年か」という言葉をよく言ったものである。ところが、二校合併というこの話は、さっぱり現実的な動きがともなわないので、三、四年もすると、ご破産になったのかと思うようになった。
しかし、目の前で新校舎の建築工事が始まると、話題は急速に身近なものにかわった。
一年生はともかく、二、三年生は両校の校風を受けついでいる生徒である。うまくいくのかな。卒業生や同窓会はどうなるのかな。そして、我々教師はどこにいくのかな。…等。さまざまであった。それも、或るものは気軽に、或るものは深刻に……。なかでも、校名については関心が強かったように思う。下馬評としては、愛芝中、港第一中、増上寺中などが多く、また、愛宕中とすべきであるという熱烈な愛宕信者もあったように思う。
けれども、委員会から「御成門中」という校名が発表された時は、みんな意外と冷静で、私も率直なところいい名だなあと思った。そして下馬評にも上っていなかったこの校名を関係者一同がすんなりと受けとめたように思う。……その後、私は、引きつゞいて「御成門中」に七年間もお世話になってしまいました。その節はほんとうに有難うございました。なお、愛宕中からは両角先生も一緒でした。
滝沢貴林(現高松中学校教頭)
(『御成門中学校記念誌』昭五五)
北芝から御成門へ
昭和四十三年四月一日、品川区から転任し、北芝中にまいりました。転任してすぐ、来年は愛宕中と統廃合になることを知り、一抹のさびしさを感じたものです。愛宕、北芝中は二百mも離れておらず、愛宕の生徒は北芝中の前を通って通学、北芝の生徒は愛宕中の前を通って通学するというおかしな状況もありました。何年も前から統合する気運があったせいか、たいした混乱もなく準備がすすめられました。「立つ鳥あとをにごさず」のとおり、きちんとして廃校にしようと生徒、職員ともに協力し後片付けに専念しました。また統廃合して生徒達がスムースに一緒になれるよう生徒会主催の交換会を積極的にもよおし親しくなる機会をつくりました。
昭和四十四年四月一日、御成門中学校が発足、両校から教員二人ずつが残り、あとは他校から赴任した先生方と共に第一歩をふみ出したわけです。一、三年生は愛宕校舎で、二年生は北芝校舎で授業をすることになり、先生方は、いったりきたりして授業をしたものです。十分間の休み時間でのゆききなため、お茶一杯飲むひまもなく苦しい毎日でした。これも両校の生徒の気持を大切にしようとする心づかいから行なわれたことなのです。昭和四十四年九月芝公園の一隅に新校舎が落成し、引越がおこなわれました。
暑いときで生徒も職員も汗まみれになり、その苦労を忘れることはできません。しばらくして、北芝中が鉄球でこわされるのを新校舎から眺めているのは、何ともさびしい気持でした。
このようにして御成門中学校の発足がおこなわれたのです。
星野和夫(現・三河台中学校教頭)
(『御成門中学校記念誌』昭五五)