視力保存學級を受持って
擔任 赤城 不二
環境の教育に及ぼす影響が如何に大きいものであるかと言う事は今更ら言を俟たない事であるが、弱視兒童の特殊學級を受持つようになってからは一層その感を深くするようになり、仕事に對する抱負が大きいような氣がしている。對象となる兒童は他の一般兒童より光の恩惠の少ない兒童であると言う事を常に意識していなければならない。而して肉體的にも精神的にも兒童の負擔を經減してやるように計ってやる必要がある。
視力を保存する爲には一時間一時間の授業にしても光の程度、反射の具合、觀察體象の遠近又は大小、視神經の使用繼續時間、擴大鏡の用い方等々……。視力の弱い兒童であれば一層細い所まで注意を拂わなければならない。又これ等兒童の健全な精神の發逹と普通兒童と異ならない人生観を持たせるように育まなければならない。斯う考えると非常に難しくとても力の及びそうもない憾を持つ。
最初この學級のこういう兒童に少しも經驗がなく、特殊兒童教育に關心を持ったこともなく又豫備知識も持ち合わせなかったので純眞な兒童の顔を見る度に針の莚にでも坐っている痛苦しさを覺えていた。
しかし、二ヵ月、三ヵ月と過ぎて行く内に兒童に親しみ又親しまれて來て、特殊兒童教育の抱負などと固苦しく考えずに只兒童と共に學校生活をしようと言う信念を持とうと思うようになった。そうして單に學校に於ける學科の指導にのみ止まらず精神的方面により强く師弟一體となって、大國民の一員たらしむべく最善の努力をしたいと願っている。
尚今年は光輝ある意義深い紀元二千六百年を迎えたのだ。心の紐をゆるめないよう信念に向って邁進したいと思っている。
「小學校の六年間」抄
兒童 視保六年 松岡 莊哉
眼が惡いために仲間の人達からいじめられるので、泣いては母を困らせたことを覺えてゐる。何とか眼の不自由な人達ばかりの學校はないかと父母も他の人々も心配してくれたが、或日眼の醫者へ治療に行った時、始めて南山小學校に弱視兒童の學級があるといふことを教へてもらったので三年生になるのを待ってゐた。
この學級は、今は一年から六年まであるが、その頃は三年以上の學級しかなかったのである。昭和十二年四月に南山小學校へ轉校した。同級生があまりに少ないので、最初は大へん淋しかったが、だんだんなれて來たらお勉强の方はかへってよく出來るやうになったし、何でもない樣になった。尾上圓太郎先生に三年、四年と教へていただき、五年の一學期は堀井シヨ子先生に、それから赤城不二先生に教へて頂くやうになった。
長い六年間を種々の先生に導いていただいたが、いよいよ來る三月には卒業となった。何だか有難いやら嬉しいやらで胸が一ぱいになる。僕はとても上級の學校へは行かれないから、これで學校は止めて一年位は家の手傳ひをしながら勉强し、自分の好きな道に入る覺悟である。
卒業生の進路について
現在、日本點字圖書舘副舘長の直居鐵は、昭和十五年三月に南山尋常小學校を卒業し、同年四月には東京盲學校中等部普通科に入學している。師範部卒業後は東京都立文京盲學校に奉職している。和歌山縣立和歌山盲學校の市川和郎(理療科)、廣島縣立盲學校の鷹橋克彥(理療科)の二人は、南山小學校では直居鐵と同級で、昭和十四年度の卒業生である。神奈川縣立平塚盲學校の市川邦也(社會科)、河野濱子(音樂科)は、それぞれ昭和十六年度、十七年度の卒業生である。
(『南山小学校視力保存学級に関する研究』小林一弘)
【付記】南山小学校視力保存学級は、昭和の初期、東京府においても数少ない教育機関であった。同学級は戦争激化まで続き、教育機器や教材を工夫するなどして大いに教育効果を高めた。
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