見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~ > 子どもたちの学びの歴史 > 給食
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昭和50年(1975)に発行された麻布小学校の記念誌『麻布台』には、明治43年(1910)の卒業生が「弁当は、アルミの箱に麦飯。おかずは、のりじきに、一銭五厘の鮭の切り身ぐらいでした。」と寄せています。当時も全国いくつかの学校で給食は実施されていましたが、地方自治体の取り組みによる本格的な学校給食は、大正8年(1919)、当時の東京府の取り組みが始まりとされています。
その後、給食は全国の学校に広がっていき、港区でも昭和10年代に多くの学校が給食を開始しました。しかしそれは戦争が始まり物資が不足する中での実施でもあり、昭和36年(1961)の『ともえPTA会報14号』では、旧鞆絵小学校(当時の鞆絵国民学校、現在は御成門小学校に統合)の昭和19年(1944)の卒業生が「小学校で最初の給食をうけたのは私たちだったと記憶している。(中略)当時の内容は、豆カス(大豆の油をしぼったカス)の中にお米が少しはいっているひどい物、おかずは無し、すきとおった味噌汁一杯だけ」と記しています。
戦後日本の給食では多くの地域で長らくパンが主食とされていましたが、昭和40年代ごろより米食を求める声が高まり、昭和51年(1976)に米食が正式に導入されました。これにより米食にふさわしい食器の開発が求められるとともに、子どもたちの「犬食い」が社会問題化する中で、給食での「先割れスプーン」の使用がその原因として批判され、同年に文部省が食器具の多様化を打ち出しました。
港区では昭和59年(1984)、青山小学校が月1回の米飯給食を試行し、平成7年(1995)には、全校一斉に週2回の米飯給食が始まりました。
食器については、昭和61年(1986)に旧竹芝小学校で「先割れスプーン」を廃止し、それぞれの献立にふさわしい、スプーン・フォーク・はしへ順次全校の切り替えを行っています。また、旧赤坂小学校では、昭和63年(1988)から「『物を大切に扱おう』という気持ちを芽生えさせることができる」という食育面などの理由から磁器に変わりました。1年後の学校だより『あかね 12月号』には、「教室での破損も少なく、けがをした子どもがいないので、ほっとしています。献立により食器を変え、(中略)給食を作るのも楽しみです」との給食室からのコメントが書かれています。
戦後の給食は、ほとんどコッペパンが主食でした。港区では昭和32年(1957)、高輪台小学校の校内にPTAの寄付により、パン焼き釜を備えたパン工場が作られました。 PTAが「子供たちに栄養値が高く、より安全な給食を食べさせたい」と働きかけ実現しました。
同校に残るパン工場の設計図等を見ると、作業台・発酵室・電気釜などが、製造工程にあわせて設置されています。
焼かれたパンの種類は、昭和32~34年(1957~1959)はコッペパンのみ、その後食パンが主流となり、平成元年(1989)頃からセサミ・パンプキン・ココアを入れた食パンなど、レパートリーが広がりました。
平成9年(1997)、自校製パンについての当初の目的が達成されたことなどを理由に区が校内製パンの廃止を打診し、平成10年(1998)に正式に廃止が決定されました。このようにして、高輪台小学校のパン工場は約40年の歴史に幕を下ろしました。
昭和40年代、港区の小中学校では給食試食会が行われていました。
PTA、学校の先生、栄養士などが集まり、子どもが普段食べている給食を試食し、費用面や栄養面、調理の際の設備、給食時の子どもたちのお行儀など、さまざまな課題を話し合っていました。PTAからは、安価でおいしい給食に感謝された一方で、給食への要望が出ることもありました。「パン3枚に対してマーガリン1ケでは足りないと思う」「皮の食べられぬ梨などの場合スプーンではむきにくい」「パンに比較して副食が少ない」などです。
また、それまで給食で出ていた「ミルク」は、脱脂粉乳・砂糖・フレッシュバターなどから作られており、品質面や嗜好面で検討されることもありました。このころから、ミルクに代わって牛乳が給食に出されるようになりました。
これらの動きと並行して、おかず(副食)の量が全般的に増量され、また、子どもがより喜んで食事を取れるように献立が工夫されるなど、給食の質はさらに上がっていきました。
戦後、未曽有の食糧難の中で、昭和21年に開始された港区の学校給食が、どのようにあゆんできたのか。昭和63年に港区教育委員会から刊行された「港区学校給食のあゆみ」でたどることができます。