見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~ > 子どもたちの学びの歴史 > 校外学習
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明治末期から大正時代、全国の小学校で林間学校が盛んに行われるようになりました。当時は、栄養管理と衛生指導による、虚弱児童の健康促進を目的としたものが多数を占めていました。ドイツを中心とした欧米の実践を模範として試みた活動が普及していったものです。
旧竹芝小学校(当時の芝浦尋常小学校)には、大正14年(1925)に、夏季林間学校へ行った記録が残っていました。11校の児童400名が静岡県原里村(現在の御殿場市)に向かっています。空気が清涼であり、小魚の遊ぶ清らかな小川もあるなど、林間学校の場所として適していると記録されています。また、原里村の人々や日本栄養協会などからの支援も受け、教育的環境にも恵まれていました。
さらに全国の林間学校では、健康な児童のための鍛錬的な実践や、体験を通じた遊びを主目的とする実践、虚弱児童の健康促進を目的としつつ史跡巡りや産業見学を行うなど、学習面の特徴を取り入れた実践なども展開されていました。昭和初期以降は、このような体験的な学習が、林間学校の主な目的となっていきます。
写真は、昭和10年(1935)の高輪台小学校(当時の高輪台尋常小学校)の参宮旅行の記録です。夜に東京を出発し、翌日1日目に熱田神宮、伊勢神宮を参拝し、2日目に橿原神宮や春日大社を、3日目に桃山御陵(明治天皇の陵)や平安神宮などを訪れていることがわかります。
ある女児は、伊勢神宮参拝の様子を次のように記しています。「薄墨を流したように、空はどんよりとしていて、今にも雨が降ってきそうだ。その中を玉砂利の音を静にならしながら歩む、周囲は立木がすきまもなく茂ってなんとなく神々しさに身がひきしまる。」(原文を現代仮名遣いに修正)
また、出発前に何度もリュックサックの中身を確認し、家族から「一生に、これほどうれしいことはないじゃろう」(原文を現代仮名遣いに修正)と言われる子もいました。現在の修学旅行と同じように、多くの子どもにとって楽しみな行事のひとつだったのです。しかし、当時は、東京から伊勢方面までは片道だけでも8~10時間かかり、費用面の負担も大きいものでした。それにもかかわらず、1930年代に伊勢参宮旅行は爆発的に増加します。昭和6年(1931)、東京都(当時の東京府)からの参拝児童数は2万人以下でしたが、昭和14年(1939)には東京都だけで10万人を超えていました。多くの児童の参加を実現できたのは、参宮旅行にかかる鉄道運賃の割引運動が高揚したこと、旅行が教育に重要なものとして大人から捉えられていたことが影響しています。
右の写真は、大正13年(1924)6月に、南山小学校(当時の南山尋常高等小学校)で軍艦見学に行ったときの様子です。後方の戦艦は「榛名」といいます。この後、ミッドウェー海戦、レイテ沖海戦などの海戦に参加した有名な戦艦でした。このころ、全国の学校では、遠足や修学旅行の際に軍艦を見学したり、軍港を訪れたりすることがたびたびありました。軍国主義の影響を受けてのことです。
白金小学校(当時の白金尋常小学校)でも横須賀を訪れています。昭和9年(1934)、ある児童は軍艦を見たときの様子を次のように記しています。「…水兵さんに親切に説明していただいた時は、言いしれぬ感に打たれて聞き入った。第一ドック、第二ドック、第三ドック、第四ドック、第五ドック、それぞれに入っていた軍艦は皆、海軍の威力をさんぜんと表している。大きな大砲も数えきれぬ程あった。…」(原文を現代仮名遣いに変更)
資料一覧では、旧南海小学校(当時の南海尋常小学校)が横須賀へ軍艦見学に行った際の写真も紹介しています。