見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~ > 子どもたちの学びの歴史 > 戦争・学童疎開
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2019年12月17日。港区立御成門小学校6年生の授業に招かれたのは、かつて芝区(現在の港区南東部)の学校に在籍し、戦時下の苦しい疎開生活を体験された方々でした。
アジア・太平洋戦争が激化すると、都市部の子どもたちを比較的安全な地方へと避難させる学童疎開が実施されました。初めは、地方の親戚などを頼る縁故疎開がすすめられましたが、昭和19年になると都市部は頻繁に空襲に遭うようになり、親元から離れ地方の旅館や寺院で集団生活を送る集団疎開も始まりました。
疎開先への出発時や到着時の歓送迎 、疎開先の学校の授業 、食糧難による飢えとの闘い、機銃掃射の恐怖。当時の子どもたちの体験談は、将来に伝えていくべき貴重な記録です。
また、各家・各学校に設けられた防空壕や、火災を防ぐための計画的な家屋の取壊し(建物疎開)、当時の子どもたちの服装など、戦時下の東京での暮らしも語られています。
写真では、柵の中に鳥居があります。これは、戦時中の赤坂小学校(当時の氷川尋常小学校)の屋上にあった神社です。同じような神社は、旧三光小学校(当時の三光尋常小学校)にもありました。
資料には、戦死者の遺影を掲げた「英霊室」の写真もあります。英霊とは、戦死者の魂を敬った言葉です。
昭和18年(1943)、白金小学校(当時の白金国民学校)では、もとは1階の音楽室だった場所が英霊室になりました。壁に神棚のようなものを設置し、両側に戦死した学校の関係者の写真を並べています。戦死者を奉り、英霊室で礼拝することが教育の一環として行われていたのです。
また、当時の赤坂小学校の校舎には、出征した人がいつまでも無事でいられるよう「出征軍人の武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈る」とスローガンが掲げられています。
神社も英霊室も、軍人へのスローガンも、現在の学校には見られません。戦争は、学校の姿や教育のあり方をも変えてしまっていました。
この写真は、昭和63年(1988)3月に、旧神応小学校で使われた卒業証書です。名前を入れ、昭和20年(1945)3月卒業の人たちへ渡されました。太平洋戦争末期の混乱のために、この年は卒業式が行えなかったのです。40年以上が経過して、ようやく手にした卒業証書となりました。
また、ある男児の卒業証書を「渡せていない」と言う元教員もいました。空襲で両親を失ったその子は、同じ年ごろの少年が楽しそうに学校へ行く姿を見ていたのでしょう。雇われ先の果物屋の主人に頼み、旧桜川小学校(当時の桜川尋常小学校)の5年生になりました。しかし、6年生の7月に「玉川の花火大会に行く」と言って出ていったきり、戻らなくなります。元教員は、卒業証書を預かったままとなりました。
子どもたちにとっても、先生にとっても、思い入れのある卒業証書。ここにも戦争の影響が大きく表れています。
戦時中、学校の子どもたちは、戦争に行く人のために「慰問袋」や「千人針」を作っていました。
「慰問袋」とは、戦地の兵士を慰めるために、手紙のほか、本や新聞、日用品などを入れて贈った袋のことです。日露戦争直後に始まりました。時には兵士からお礼の手紙が届き、やりとりが続くこともありました。ある男児は「『やっぱり兵隊は兵隊らしい言葉を使うな』と思った」、「勇ましく書いてありました」などと感想を記しています。(原文を現代仮名遣いに修正)
また、「千人針」とは、1枚の布に千人の女性が赤い糸で1人1針ずつ縫って、お守りとして兵士に渡していたものです。日清・日露戦争のころから行われました。「虎は千里を行き千里を帰る」という故事にちなみ、「寅年生まれの女性がその年齢の数を縫うとよい」という言い伝えがありました。寅年生まれの6年生の女児が、「せめてたくさん縫ってあげよう」と千人針に協力したことを作文に残しています。
戦時中、空襲が激しくなると、学童疎開が行われるようになりました。昭和19年(1944)には、旧竹芝小学校(当時の竹芝国民学校)、芝浦小学校(当時の芝浦国民学校)、高輪台小学校(当時の高輪台国民学校)などの6校の4年生以上が、栃木県那須塩原市(当時は塩原町)に集団疎開をしました。
その後、赤羽小学校(当時の赤羽国民学校)、旧西桜小学校(当時の西桜国民学校)、旧桜田小学校(当時の桜田国民学校)など、学童疎開をする学校はさらに増えます。
旧竹芝小学校の子どもたちは塩原の旅館などで生活しました。午前中は学習、午後はジャガイモを植えたり山菜を摘んだりして過ごします。しかし、食糧難やしらみ(人に寄生し、血を吸う虫)、冬の寒さなど、その生活は厳しいものでした。疎開先に引率した先生は、日ごとに食糧が足りなくなり子どもが痩せていく、風呂に入っているのにしらみが増えるなど、『たけしば第6号 50周年記念特集』(昭和32年(1957)発行)での座談会で語っています。それでも、先生たちは親と離れて寂しがる子を元気づけ、困難に立ち向かいました。「夜子供達を寝かせてから本部に集り、戦況を聞き、東京の空を案じながら、明日の子供達の生活をできる丈明るく支える事に精一ぱいの努力を続けて居りました」と同誌で述べています。
資料では、子どもたちとの疎開生活の様子がわかる写真等を、複数紹介しています。
第二次世界大戦中、学校の先生が戦争に行かなければならないこともありました。
旧飯倉小学校(当時の飯倉尋常高等小学校)の4年生の子どもは、学校で先生の出征歓送会が開かれたあと、熊野神社へみんなでそろってお参りに行ったことを作文に残しています。
「先生が神社へお着き(に)なっても、まだ行列の最後は赤羽のガソリンスタンドの所でした。今まで出征した兵隊さんのお見送りで、あんなに長く続いたことはありませんでした。(先生は)神社の前から電車で靖国神社へ向かわれました。僕はお母さんと、電車が見えなくなるまで、見送っていました」(原文を現代仮名遣いに変更。( )内は追記)
また、資料には、出征のあいさつのために、卒業生が小学校を訪れたときの写真もあります。昭和12~18年(1937~1943)ごろの白金小学校(当時の白金尋常小学校・白金国民学校)での様子です。彼らも、このあと戦地へ赴いていくこととなります。
戦前の子どもたちのあいだで流行した遊びのひとつに「戦争ごっこ」(兵隊ごっこ)があります。とくに戦時中には、多くの子どもたちが遊んでいました。旧桜川小学校(当時の桜川尋常小学校)の2年生は、その様子を次のように作文に残しています。
「……ボクタチハテキガ木ノ上ニノボツテヰルノヲ見テテッポウデウチトッテシマヒマシタ。ソノテキヲ、テッポウヤ刀デキッテシマヒマシタ」(僕たちは敵が木の上にのぼっているのを見て、鉄砲で打ち取ってしまいました。その敵を、鉄砲や刀で切ってしまいました)
そのほか、戦争ごっこの中で、「中隊長」が「大隊長」に昇格して号令をかけるようになったり、金鵄勲章(きんしくんしょう)(武功抜群とされた陸海軍の軍人や軍属に与えられた勲章)を受けたり、子どもたちは当時の軍事制度を遊びに取り入れています。
右の写真は、昭和17年(1942)の旧桜川小学校(当時の桜川国民学校)の学芸会で、1年生が「兵隊ゴッコ」をしているときの様子です。戦争が続くにつれ、「戦争ごっこ」などの子どもたちの遊びが、戦意高揚のために学校教育へ取り入れられていきました。