見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~ > 区民とあゆむ学びの歴史 > 学校を支えた地域の活動
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明治10年(1877)に開校した桜田小学校(当時の桜田尋常小学校、現在は御成門小学校に統合)は、大正12年(1923)の関東大震災によって全焼しました。そのため、学校復興に向けて校舎を移転して建て直すことになりましたが、当初の設計では、校庭が狭い、日当たりが悪いなど決して子どもたちにとって良い環境とは言えませんでした。
また、東京市は関東大震災後の復興事業において、小学校に併設する形で、52個の小公園を新設しました。桜田小学校の隣にも、そのひとつとして桜田公園の設置が計画されていました。そこで、新校舎建設予定地を広くとれるよう、保護者・有志らは東京市と粘り強く交渉を重ね、その結果、桜田公園の敷地の一部を東京市から譲ってもらうことができたのです。
これらの公園は、防災の観点から火災発生時に建物の延焼を防ぐために配置されましたが、同時に学校以外の地域における教育の場としても期待されていました。戦前にも指導員が巡回指導をするなど、公園での遊びを通じて子どもたちへの教育が行われてきました。桜田小学校は平成3年(1991)に閉校しましたが、改修ののち港区立生涯学習センターとなり、桜田公園とともに地域住民が憩い学ぶ場としてその特色は引き継がれています。
学校周辺での子どもたちの安全を守るための活動の記録が、区内の学校に残されています。高輪台小学校には、PTAなど地域の大人たちによる校外補導委員会が危険な場所を調べて写真に撮り、保護者へ周知する取り組みの様子がわかる資料が残っています。
昭和40年には、当時の鞆絵小学校・PTA・巴町町会が連名で信号機設置に関する上申書を警察署長宛に提出しています。同様の要望は区内各地の小・中学校でも出されており、港区議会でもみどりのおばさん(学童擁護員)との懇談会を開いて対策を議論しました。
地域にみられる、通学路の自動車に注意を促す標識や横断旗は、大人たちの地道な働きかけにより設けられたものが少なくありません。学校と地域の大人たちが協力して子どもたちの安全な暮らしを守ってきたことがよくわかります。
港区では地域による学校支援活動として、子どもたちの学びの支援も盛んに行われてきました。大人の知識や経験を生かして子どもたちの学びをサポートしようという取り組みで、三光小学校の「三光いろはガルタ」はその象徴的な例です。
「三光いろはガルタ」とは、昭和50年(1975)に子ども・先生・地域住民が協力して作り上げた三光小学校オリジナルのカルタです。「すこやかな からだをつくる 全校マラソン」や「類のない 大学習室で 楽しい勉強」と言った当時の子どもたちの学校での様子がわかる作品が目を引きます。また、「海抜は 八メートル ぼくらの町」「千三百年 郷土をまもる 氷川さま」など、自分たちの暮らす地域の名所、特徴などが盛り込まれています。
お正月には三光いろはガルタを使ってカルタ大会を開催したり、句の意味を詳しく知るために説明の冊子を作ったりと、カルタを作るだけではなく、様々な形で子どもたちの学びに生かされました。
小学校や中学校で行われる社会科見学や職場体験には、地域の協力が欠かせません。多くの企業や事務所等の支えがあって、子どもが仕事について考える教育が実現されています。
小学校では、社会科見学として地域のことを調べる学習が以前からありました。旧赤坂小学校では、昭和53年(1978)に港区内めぐりを行っていました。子どもたちは、「竹芝と芝浦桟橋」で港や倉庫の様子、石灰などの積み荷を動かす仕事などを見学しています。
中学校には、職業を実際に体験し、働く人と接する職場体験があります。全国では、平成13年前後から実施されるようになりました。高松中学校では、さまざまな場所で職場体験を行っています。ある2年生は港区内の病院に行き、血液透析の機器のすばらしさ、医師と患者は二人三脚の関係で治療を行っていることなどを学びました。また、ある生徒は、港区の東京プリンスホテルへ職業体験に行っています。社会人に必要な礼儀作法やルールによって、他人とも気持ちよく接することができることに気づいたと感想を記しています。
子どもたちは、実際の見学や体験を通して、自分たちの暮らす地域やそこでの仕事について学び、成長しています。
掲載にあたって
PTAは、GHQの指導のもと、戦後になって新しく誕生した保護者と教職員による組織です。戦前の学校にも、保護者の参加する組織として後援会などがありましたが、その活動は財政面や物質面で奉仕することが中心でした。これに対して戦後のPTAは、保護者と教職員の協力によって、よりよい教育のために幅広い活動を行うことを目的としていました。
旧城南中学校は昭和22年(1947)に創立されました。当時は校舎も紙もなく、教員も足りませんでした。後援会(後のPTA)は、校地の獲得や校舎の建設・増築へと尽力しました。このように、戦後しばらくは学校の整備が進んでおらず、教育の条件整備がその活動の中心でした。より多様なPTA活動ができるようになるのは、しばらく後になってからのことです。
昭和30~40年代になると、各学校のPTA活動が活発になります。旧桜川小学校では、給食試食会、工場見学などを行っていました。「母親教室」として児童の学習を体験したり、「緑のおばさん(児童の通学を見守る人)」が休みのときに、朝の登校時だけ代わりをしたりすることもありました。また、芝浦小学校では、「PTA理髪」という名前で、保護者の手によって児童の散髪を行っていました。そのほか、地域懇談会や子ども会、電車・バス通学用の通行証作成など、活動は多岐に渡っていました。