今の港区は、高層ビルが増えたために、山の手の台地・段丘と下町の低地の地形の差違はやや目立たなくなったが、起伏の大きい、したがって坂の多い土地であるのは昔と変わらない。今の港区には東京タワーがあり東京を一望することができるが、昔は愛宕山が江戸を一望できる景勝の地として知られていた。
愛宕山は、武蔵野台地東縁では、上野の山、駿河台、江戸城本丸台地とともに、もっとも東に張り出した位置にある。
図1 東京の地形区分
貝塚爽平『東京の自然史』(紀伊国屋新書 1976刊)の図に一部改訂を加えた。
【地形の区分】 港区の平坦な地形を大別すると、台地面・段丘面と低地に分けられ、低地はさらに谷底低地と海岸低地に分けられる。台地面・段丘面と低地を境するのは斜面または崖である。
このように地形を区分した図を、地形図の等高線(図2)をもとに作成した(図3)ので、これからの地形の記述には、これらの図を参照していただきたい。
【台地の地形】 台地は区の北西部で高くて海抜三五メートルに近く、おおむね東南東に低下して海岸低地に臨むところで二五メートル前後となる。
台地を刻む谷の主なものは、溜池の谷、古川(上流は渋谷川)の谷であり、いずれも樹枝状の支谷をもつ。この二つの谷の数多い支谷のなかでは、古川の支谷である笄(こうがい)川の谷がもっとも大きい。なお、区の南には目黒川の谷があり、その支谷の谷頭が区の南縁になっている。
これらの谷は、台地表面の一般的な傾斜の方向である東南東に向かうものもあるが、それとほぼ直交する北東~南西ないし北北東~南南西方向のものもかなりある。大きい谷では渋谷川の谷の一部がそうであり、古川右岸の谷や溜池の川の右岸の谷もそうである。そういう谷の系統によって、台地が複雑に区切られている。その区切られた一つ一つの台地の名称は一般に通用するものがないらしいので、以下では、かりに図3に付けた名を使うことにしたい。なお、二方向の谷の系統の由来については、(二)項で述べよう。
台地面と谷底の高度差は、谷頭では小さいが谷の下流では一五ないし二〇メートルとなる。台地面と谷底低地あるいは海岸低地の間の斜面は、緩急さまざまであるが、特に急なのは溜池の谷と古川の谷の間にある、赤坂台地・飯倉台地・麻布台地ならびに高輪台地であろう。このような急な斜面があり、したがって、名のある急坂が多いのが港区の地形の特徴をなしている。
図2 港区と周辺の等高線図
基図としたのは国土地理院の1万分の1地形図,新宿・三田・品川・日本橋・新橋(昭和33~34年発行)。等高線は部分的に参謀本部陸軍部測量局の5千分の1地形図(明治16・17年測量,明治20年発行)と東京都(首都整備局)の2500分の1東京都地形図(昭和47年撮影の空中写真による)を参照した。都電停留所の名称は昭和35年現在である。
図3 地形の区分と沖積層(軟弱層)の厚さの分布 台地面の等高線は図2による。
沖積層の厚さは,港区建築部建築課『港区の地盤 1978版』(地質柱状図集),復興局建築部『東京横浜地質調査報告 1929刊』の付図にもとづいて描いた。
【台地の地質】 次には台地を構成する地層を概観しよう。図4の四つの東西断面図にみられるように、台地はすべて関東ロームおよびローム質粘土におおわれ、両者を合わせた厚さは平坦な台地上では一〇ないし一三メートルである。この図で関東ロームとしたのは、厚さ約五〇センチの黒土(表土)の下にある約三メートルの立川ローム層、約四メートルの武蔵野ローム層を合わせたもので、ほとんどが富士山からの火山灰である。ただし、武蔵野ローム層下部に挟まれる黄色い軽石(浮石ともいう、厚さ五~一〇センチ)は箱根火山に由来する。その下のローム質粘土は渋谷粘土とも呼ばれるが、横浜方面の下末吉ローム層に当たるもので、三~四枚の薄い軽石を狭んでいる。ローム質粘土は主に箱根火山に由来する火山灰が粘土化したものである。
近年の年代測定によると図5に記したように、黒土の下限が約一万年前、立川ローム層下限が約三万年前、武蔵野ローム層の下限が約六万年前、下末吉ローム層のそれが一二~一三万年前である。したがって、港区での関東ローム層(立川・武蔵野・下末吉ローム層)の厚さ一メートルは約一万年に当たる。
関東ローム層の下に広く分布するのは、砂と粘土・シルトよりなる上部東京層と呼ばれる地層で、厚さ一〇~二〇メートル、その下にはこれも広く分布する東京礫層がある。上部東京層のなかには貝化石を豊富に含み、浅い海底の堆積物であることを示している。図4からわかるように、上部東京層の上部は砂層よりなり、その上面は海抜一五~二〇メートルで、平坦である。
その上に重なる関東ローム層は空から降って雪のように地面をおおった地層だから、台地上の平坦な地形の由来は、上部東京層よりなる平坦な浅海底であり、その浅海底が干上がって陸になったのは、下末吉ローム層下底の軽石の年代によって、一二~一三万年前であることが知られている。
東京礫層は厚さ数メートル、都内では荷重の大きい建造物のよい支持地盤であるとされ、超高層ビルや東京タワーの基礎は、ここにおかれているという。
東京礫層の下には、粘土質または砂質の地層があり、下部東京層とか江戸川層とか呼ばれている、さらにそれ以深には上総(かずさ)層群に属する砂層や泥層がくる。
以上に記した台地を作る地層は、黒土をのぞくとほとんど第四紀更新世(別名洪積世、約一八〇万年前~一万年前)の地層(洪積面)であり、それより下には三浦層群という第三紀の地層があるが、それは当区では海面一〇〇〇メートル以深にあるとみられている。
【段丘の地形と地質】 次に、台地より一段低いが、低地よりは高い平坦地として、段丘面がある(図3)。それは青山台地と麻布台地の南端にあるもの(海抜二〇~二五メートル)、高輪台地の東縁につくもの(二〇~二五メートル)と高輪台地の北端に曲玉状の平面形をもつ三田段丘(一五~一八メートル)、溜池の谷の南岸の赤坂二丁目から六丁目にかけての段丘(一七~二〇メートル)などである。
芝公園内の丸山古墳のある丘と増上寺の西の丘(一五~二〇メートル)、千代田区に属するが、国会議事堂の東の段丘(二〇メートル前後)、江戸城の本丸台地(二〇メートル前後)と西丸から吹上にかけての段丘(二〇メートル前後から二七メートル)は、いずれも人工的改変が著しく、確かなことはわからないが、台地面ではなく段丘面のようである。
これらの段丘は、少なくとも立川ローム層と武蔵野ローム層におおわれ、武蔵野面(M面)に属するものであろう。ただし、武蔵野面の細分であるM0面、M1面、M2面、(図5参照)のどれに当たるのかは明らかでないし、ローム層下の段丘堆積物もよくわかっていないから、成因も多くは河岸段丘であろうが、海岸低地に近いものは海岸段丘かも知れない、という程度にしか述べることができない。
【谷底低地の地形と地質】 この項の最後に、谷底低地と海岸低地について述べよう。谷底低地として最大のものは古川の低地で、溜池の谷底低地がこれにつぐ。これらの谷底低地は軟弱な沖積層で構成され、大部分は粘土・シルトよりなるが、基底部に砂礫の薄層、上部に腐植物や泥炭を伴うことが多い。
古川低地での沖積軟弱層(粘土・シルト・腐植土・泥炭)の厚さは図3に書いたように、古川橋付近で五メートル余、一ノ橋付近で約一〇メートル、谷口で約一五メートルである。この沖積層の基底には、図4のC-C'断面に描かれているように、東京礫層があることが多い。ボーリング資料によると沖積粘土のなかには一ノ橋付近で貝化石の記載があるから、沖積層が堆積したある時期に、少なくとも一ノ橋付近まで海が入っていたに違いない。
溜地の低地の沖積層は、谷が短く狭い割に古川低地のそれより厚く、赤坂見付付近で約一〇メートル、溜池では一五メートルにある(図3)。また、この谷では腐植土や泥炭が古川低地よりも厚く、四~五メートルに達する所が少なくない(図3の泥炭地記号の分布を参照)。
なお、溜池低地では、赤坂見付付近まで海が入りこんでいたことがボーリング資料の貝化石の記載から推定される。溜地の谷では、沖積層の直下に東京礫層がなく、上部東京層がある(図4A-A'断面)。その理由は東京礫層が古川谷より地下の深いところにあり、谷底がそこまで達していないためである。
図4 地形と地層の東西断面図
東京都土木技術研究所『東京都地盤地質図1969刊』の地形断面を図2により,表層近くの地層の一部を港区建築部建築課の『港区の地盤1978版』によって改訂したもの。断面線の位置は図2および図3に示した。
かつて古川が沖積層下の谷(今は沖積層に埋没した谷)を掘り下げていた時に、東京礫層まで達すると、礫層の礫を運搬するに足る水力がなく、谷底の深さは東京礫層と一致するところで止まってしまったとみられる。それにくらべて、溜池の谷は、延長が短く流水の力は劣っていても、東京礫層が深いため、上部東京層中に深い谷を掘ることができた。これが、溜池の低地で埋没谷が深く、したがって沖積層が比較的厚いことの素因になったと考えられる。溜池の谷の小さい支谷もそれに応じて、今は谷底が沖積層に埋没している深い谷を作り、急な谷壁斜面をもつことになったと推定される。
【海岸低地の地形】 海岸低地は台地の東縁をなす崖を連ねた線より東の低地で、それが陸地になったのは、ほとんど江戸時代以来の埋立てによる。明治十一年作製の地理局地誌課の『実測東京全図』によると、当時の海岸線はおおよそ今の東海道線の位置に当たっていた。もう少し詳しくいうと、汐留駅(貨物駅)から今の浜松町駅~田町駅間までの鉄道は埋立地内を通っていたが、それより品川駅に至る間は、海中に設けた堤の上を通った。高輪台地東縁の崖下では東海道(今の国道一五号線)が海に直接していたのである。
遡って、天正十八年(一五九〇)、家康入国当時の海岸線は、愛宕山の少し東から霞が関の台地下に至っていたとみられる。なお、今の日本橋から新橋にかけては、江戸前島の砂洲があって、その西は入江(日比谷入江)になっていたから、愛宕山は入江の口に臨んでいた。図2の五メートル等高線がほぼ当時の海岸線と考えでよいであろう。この五メートル等高線と台地の縁の間は砂浜ないし砂洲があったことが沖積層上部の砂の分布から推定できる。図3では、これを砂堆と表わして描いた。
【海岸低地の埋没地形】 海岸低地では埋立ての土の下に沖積層があるが、その厚さは変化に富む。図3は地表から沖積層下底までの深さを示す等厚線で厚さの変化を表わしてあるが、海岸低地の地盤高はおおむね二~五メートルと平坦だから、この等厚線の値から二~五メートル減じたものは、ほぼ沖積層基底の海面下の深さを示すとみなせる。図にみられるとおり、かつての日比谷入江の地下には、深さ二五メートルに達する谷地形が埋没している。この埋没谷は『東京地盤図』(一九五九年刊)では丸の内谷と呼ばれている。
右に記した溜池の埋没谷の延長は愛宕山の北東で丸の内谷に合している。また、古川の埋没谷は三田段丘と丸山古墳のある段丘の間から南東に延び、芝浦桟橋の南部で深さ三〇メートルに及ぶが、そのさらに下流は、やはり丸の内谷に合することが知られている。
埋没谷と埋没谷の間には埋没台地があり、そこでは洪積層が地下の浅いところにあるから地盤がよい。丸の内(埋没)谷の東側にある埋没台地は日本橋(埋没)台地と呼ばれているもので、これは陸上の本郷~駿河台台地のつづきに当たる。
丸の内谷と古川埋没谷の間にある平坦な埋没地形を芝埋没台地と呼ぶことにする。これは陸上の飯倉台地や愛宕山の台地の連続である。古川埋没谷と品川区内の目黒川埋没谷の間、すなわち高輪台地の東側の地下には高輪埋没台地とでも呼べるものがある。しかし、ここではボーリング資料が多くないので、埋没台地の地形はあまりよくわかっていない。
これらの埋没台地をおおう沖積層は一般に砂質で薄く、波打ちぎわの堆積物である。この堆積物や埋没台地の地形は、この台地表面が海食台(海岸の波の作用で浸食されてできる海底の平坦地形)であることを物語っている。これら埋没海食台の陸側の縁に当たるのが、愛宕山や高輪台地東縁の崖であり、崖下まで海であった時代の海食崖にほかならない。埋没海食台が形成されたのは、後に記すように約七〇〇〇年前以後歴史時代に至る期間のことである(図5参照)。
海岸低地で沖積層が厚いのは、上記のように埋没谷のところである(図4)。そこでの沖積層は主に粘土・シルトよりなるが、基底部や上部や、時には中部にも砂層を挾んでいる。それらの沖積層、ことに粘土・シルト層は地盤として軟弱であり、また、地下水の汲み上げによる収縮で地盤沈下をおこす主因ともなる地層である。丸の内谷に当たるところでは国鉄の高架線が地盤沈下のために撓(たわ)み下がったり、洪積層に基礎をおくビルが地面から抜上がってビルと歩道の間に亀裂が入ったり、傾斜がついているのを見る所がある。海岸低地の地下の洪積層の構成は図4にみられるように、台地部の地下にある洪積層の続きである。