【新生の海岸平野】 一二~一三万年前の海は、その後の海面低下によって退き、海底が干上がるに従い広大な海岸平野があらわれた。それまで古東京湾に注いでいた多摩川や利根川は流路を下流に延長し、新生の海岸平野を流れるようになった。
多摩川は今の武蔵野台地上で、次々と流路を移し、総称して武蔵砂礫層と呼ばれる河床堆積物を残すことになった。しかし、武蔵野台地の東部では海岸平野(かつての海底)が多摩川の浸食・堆積作用からまぬがれて残った所がある(図6②の中央の図)。それが図1で下末吉面とした淀橋台や荏原(えばら)台であり、港区の台地面は淀橋台に属する。
淀橋台や荏原台では、海底から海岸平野に移り変わるとともに、そこに降った雨が新しく流路をつくることになった。今の渋谷川~古川、溜池の川とそれらの支流の前身が、このとき現われたのである。これらの川は、おおよそは海岸平野の、つまりもとの海底の、低まる方向である東南東に流れたに違いないが、海岸平野の微起伏にも影響されたに違いない。(一)の項で港区の谷に北北東~南南西ないし北東~南西の谷が多いことを指摘したが、それは海岸平野、つまり台地面の微起伏に支配されたためと推定される。
【樹枝状谷系の成因】 推察するに、海底が次第に干上がっていく過程で、古東京湾の海岸には、海岸線ぞいに、波が打ち上げて作る砂堆(浜堤)の高まりができたと思われる。それは今の九十九里浜平野で見られるようなものであっただろう。海岸平野の川は、そのような砂堆と砂堆との間に、流路を求めて流れるものである。
図3で麻布台地の文字のあるところから白金台地の文字のあるところにかけては、多分一連の砂堆の高まりであり、笄川や白金自然教育園に源をもつ川は、その砂堆によって流路がきめられたものであろう。北北東~南南西にのびる高輪台地も砂堆の姿を今にとどめているのであろう。白金台地と高輪台地の間の台地面は、両側の高まりより二、三メートル低いが、それは砂堆と砂堆との間の凹地かと推定される。
ここに述べた砂堆説を、ボーリングの資料から裏づけることを筆者は試みたが、微妙な問題であるだけに立証できていない。しかし、反証もない現在、港区の複雑な樹枝状谷系を説明する一つの仮説としてここに記した次第である。
【段丘の時代と成因】 こうしてもとの流路がきまった区内の川は、海岸平野面を掘り下げ始めたが、その過程で作られたのが古川や溜池の川ぞいの段丘面である。掘り下げることになった主因は、海面の低下であろう。
図5に書いたように、一二万年ぐらい前から海面が低下し、そのご約一〇万・八万・六万年前に上昇を繰り返なしながらさらに低下へと向かっている。この一〇万年~六万年前が、ほぼ武蔵野砂礫層の堆積時代であり、その堆積表面は一括して武蔵野面(M面)と呼ばれる。M面は、約一〇万・八万・六万年前の三期のものが識別できるところがあって、それぞれM0(三浦半島では引橋面)、M1面(小原台面)、M2面(三崎面)とされる。これらの形成期は上記の海面上昇期に当たり、古東京湾の後裔である東京湾も、そのたびに拡大したことが推定できる。区内の台地ならびに千代田区の台地の東縁につく図3に示した段丘面の一部、とくに高輪台地東縁のもの、皇居から霞が関にかけてものは、M1期もしくはM0期に東京湾の海岸にできた海食台かも知れない。この年代と成因の確定については、今後の研究にまちたい。
区の南端にある御殿山の段丘は海食台ではなく、河岸段丘であることが、段丘礫層の存在から推定され、M2期のものかといわれている(『品川区史通史編上巻』)。高輪台地北端の三田段丘や丸山古墳のある段丘は、おそらく御殿山段丘と同じ時代にできた古川の河岸段丘であろう。図6②はその時代の地形を推定して描いたものである。
【下末吉ローム層】 台地面(S面)の形成中からM0面形成の期間には、下末吉ローム層が降下した。台地面(S面)が陸化の途中の降灰には海岸平野上ばかりでなく、浅い海底や、砂堆間の湿地に降ったものもあっただろう。段丘面(M面)が形成中の降灰もあった。
これらの火山灰は風化し、粘土化しているものが大部分であるが、そのなかの軽石の同定をはじめとする地層の研究がすすめば、段丘面(M面)の形成時代、約五万年間の港区の地形の変遷がもっと詳しく読み取れることになると予想される。