(3) 谷の形成時代

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【海面の大きな低下と谷】 段丘面形成時代の末期に、台地面は一〇メートル程度は河谷によって掘り込まれていたにせよ、港区は起伏の小さい土地であった。その後、ひきつづいておこった海面の低下、ことに二万年~一・五万年前に頂点に達した海面低下にみちびかれて、川は台地面から二〇~四〇メートルも掘り込んだ谷を作ることになった。こうして、今の港区より起伏の大きい地形が一万五〇〇〇年前には、大よそでき上がっていた。
 区内の谷で、もっとも谷底の深度が大きかったのは、今は海岸低地の沖積層によって埋められている丸の内谷であり、これは当時完全に陸化した東京湾の西寄りを流れた大河川である古東京川の壮大な谷に合していた(図6③)。古川の谷や溜池の谷は丸の内谷の支谷だった。
 この谷形成の時期にも、川岸に段丘が残された例は多く、多摩川ぞいの立川段丘はその一つであるが、区内には明瞭なものがない。しいてあげると白金台地の北縁、古川の南岸に海抜一〇メートル前後のものがある。今は、沖積層下に埋没しているこの時代の河岸段丘もあると思われるが、実態はほとんど知られていない。
 古川や溜池の川が、丸の内谷の形成に伴って下刻した際、古川では、東京礫層が下刻を阻害したが、溜池の川では、東京礫層が深いために、下刻を阻害する条件とならなかったことを前に記した。いずれにしても、これらの川の掘り込みに伴って、それらの支流が台地を下刻して谷を作った。その谷川の水は、地下水に養われたものが多かっただろうし、地下水が谷壁から湧き出すことによって谷頭浸食がすすみ、谷が上流へ延長したものも少なくなかったろう。ことに、飯倉台地・赤坂台地・麻布台地に多い円い形の谷頭は、そういう作用によって作られたものと推定される。
 六万年前から二万年前に至るこの時代には、富士山(今の富士の下にかくされた古期富士)の火山灰が降り、武蔵野ローム層、つづいて立川ローム層となって、台地や段丘はもちろん、この時代に作られつつあった谷壁斜面もおおうことになった。
【最終氷期】 この時代はアルプスでいうウルム氷期であり、日本でも約二万年前がもっとも寒冷だったことが知られている。東京では、中野区江古田の谷から発見された植物化石が、当時の気候は今の十勝平野のようであったことを物語っている。
 上部東京層の時代からこの時代にかけての約一〇万年間に、東京にナウマン象がいたことは、東京の各地で発見された化石から知られている。区内からは歯のついた下顎骨が芝浦の地下一五メートルから工事のさい出土し、標本は上野の科学博物館に蔵されている。ナウマン象の全身骨格は千葉県で発掘されたものが、科学博物館に展示されているが、この象がこの時期の東京の主人公だったといえそうである。約三万年前になると、東京に人類が住んだ確実な証拠がある。それは山の手台地の立川ローム層のなかから発見される石器である。もっとも当区内の立川ローム層中からは、いまだ発見されてはいない。約一万年前にウルム氷期が終わって後氷期になるが、それは象の時代の終わりでもあり、先土器時代が終わって縄文時代が始まる時期でもある。