(4) 沖積層の堆積――低地の形成時代

24 ~ 25 / 1465ページ
【有楽町海進がもたらしたもの】 一万五〇〇〇年前には、今より一三〇メートルも下がっていた海面が、その後の温暖化とともに上昇し、七〇〇〇年前にはほぼ今と同じ高さに至った。この海面上昇を有楽町海進という。一九〇九年に、今の千代田区有楽町でビル建設のさい、海成の沖積層に有楽町層という名が付けられたのが、この名称の起源である。
 この海進によって、丸の内谷、古川の谷、溜池の谷には海が浸入した。約六〇〇〇年前の縄文前期には、海水準は今より三メートルほど高かったらしく、入江はもっとも内陸に入り込んだ。この入江を河川の砂泥が埋め立てたのが、沖積層の主体をなしている。沖積層のなかの貝化石や台地の縁辺に分布する縄文時代の貝塚から、当時の入江は溜池の谷では、赤坂見付付近まで、古川の谷では古川橋付近まで入っていたと推定される(図6の④)。
 一方、東京湾に面する海岸では、約七〇〇〇年前に海水準が今の海面の水準に近くなってから後、波の作用によって台地の縁が浸食され、海食台を崖下につくりつつ海食崖が内陸に後退した。こうして、日本橋埋没台地・芝埋没台地・高輪埋没台地と、本丸の台地―愛宕山―御殿山をつらねる台地と低地を境する崖線ができ上がった。本丸・愛宕山・御殿山の三カ所で台地がやや東に張り出し、その間では台地縁がやや西に凹んでいるのは、海食に対する上部東京層の抵抗にちがいがあったためと推測される。
 台地の縁の浸食で生産された土砂は、丸の内谷や古川埋没谷を埋め立てたに違いない。また、砂は海岸に砂浜をつくり、あるいは沿岸流に運ばれて、古川の入江や溜池の入江の口を砂洲で閉じる形になった。それらが図3に分布を示した砂堆である。谷口を埋められた古川や溜池の入江は潟に変じ、岸辺にはヨシやマコモが茂り、潟の水草とともに泥炭や腐植土を堆積させることになった。古川の潟は大きい流域をもつ古川が流入させる土砂で、溜池の潟よりも早く埋め立てられたであろう。河川の作用による埋立てがおくれた溜池の潟は江戸時代には人工的に出口を閉じられ、「溜池」として江戸の一水源となった。